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異なる階級を羨望するのではなく、分かり合える友に救われる

最近「あのこは貴族」という映画を見た。

日常生活の中で映画と同じテーマのようなものを感じる機会があり、今見ておきたいと思って映画館へと足を運んだ。

東京で生まれお嬢様として育った華子と地方で生まれ上京し必死に生きている美紀。この二人を軸に話は進んでいく。

この二人を見ていると、東京に階級はあるのだと再認識してしまう。

華子が上の上だとするなら、華子の結婚相手である幸一郎は特上、美紀は下の上くらいと仮定する。そうすると、自分の階級は中の上くらいだろうか。映画を見ながらそんなことをボッーと考えていた。

私は東京で生まれ、裕福な家庭環境で育ったと思う。なに不自由なく暮らし、立派な家に住まわせてもらい、私学の中高一貫にも通わせてもらった。華子ほどではないにしろ、恵まれた環境にいることを自覚している。

ここで感じてしまうのはやはり階級のことである。この言葉はあまり好きではないが分かりやすく強調するためにあえて使ってみる。

私自身の友人関係を考えてみた。そうすると見えてくるのは価値観の少しの違いである。地元の小学校の友人たちよりも、中高の頃の友人との方が価値観が合うような気がするのだ。ここで一つ前置きをしておくが、どちらかが友人として優れている、ということではない。どちらも私という人間を形づくる中で欠かせない友人たちだという事実は変わらない。

結婚相手の条件としてよく聞くのは、価値観が同じ人との方が上手くいくという話。これは階級が同じ人ということ意味しているのではないか。

つまり、価値観の一致=同じ階級ということである。

恋人や友人だったら、価値観が異なっていても付き合っていける。むしろ、良き恋人、友人といったプラスな関係になるケースが多いように思う。異なる価値観は、時に自らの成長や考えの幅を広げるからである。しかし、新たな価値観によってどんなに考えの幅が広がったとしても、根底にある価値観は揺るがなかったりする。             

なぜなら、その価値観は自らが生まれ育った環境、親の考えや教えが強く影響しているからである。これこそが階級である。

階級にはその階級独自の辛さや苦しみがある。それは、同じ階級でしか真にはわかりあえない。(、と思っている。)家業を継がなくてはいけないプレッシャー、会社勤めの苦労、自立しないと生きていけない環境、親の過保護に縛られる辛さ、、、など。階級が異なれば羨ましく思えるようなことも、当の本人にとっては苦しいことだったりする。

映画中のセリフで特に好きだったのは、美紀の家のテラスでアイスを食べながら華子と美紀が話す場面である。華子には華子なりの辛さがあると知った美紀がつらいことをつらいと、些細な楽しかったことを楽しかったと、伝えられる人がいればいいと言う。(たぶんこのようなニュアンスのことを言っていた気がする…)

華子と美紀は良き友人になれる。それでも、すべてを分かり合うことはできない。しかし、華子には逸子がいて、美紀には里英がいる。私にもすぐに思い当たった人達がいた。それはとても幸運なことで、それだけで私たちは救われる。

階級というセカイに囚われていても、分かり合える人さえいれば人は強くなれるし、楽しく生きれるんだなぁと、。


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