平成じゃなくとも

"平成最後"とか、"見納め"とか。
そんな言葉がなくとも、町は人はなにもかもは変化していく。

この最後の1年に起きた事象を虚しさや刹那主義ととらえてそう並び立てるなら、

いつだって2018年のこの日が最後で、見納めだと思ってもおかしくはないだろう。

私は故郷に帰る度、切り崩された山々を見てそこに基礎だけ作られたセメントになにかしら思います。

1ヶ月の短期間のうちに、私が子どもの頃に見た景色はなくなっていく。
人口密度やお金などでこうやって私の町は昭和から平成へと姿が変わっていく。
それが仕方のないことだと、私もその切り崩された山の一角に家があるから文句は言うなと。確かにそうなのですが、最低限の土地を私達は人はもらっていくほうがいいと思うのです。

山がなくなると、鳥やたぬきは昔より住む場所を奪われる。最後の住み家だったかもしれないその山が失われていく。

今まで平成最後なんて言葉がなければ毎年を一生懸命になれないほど、私は日々に疎くなりたくない。
ただのイベントに仕立て上げるその姿が好きではない。

ただの独り言です。
文句です。

平成最後は変わらないものでさえも特別な意味にさせてしまう。そんな気がしてしまう。
平成最後だからといって、そこに価値は見いださなくていい思う。

私にとっての、最後と始まりと中間地点がどこかにある。

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