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「知らないと思おう」という話

SNSでの反対騒動などを見ていて、
とても感心する事は、
「みんな検察について詳しいんだなぁ。
自分も学校で勉強したはずだけど、何も知らなくて恥ずかしい」
という事だったりします。

それと同じぐらい感心してしまうのは、
「誰かが怒っているという内容だけをまとめるだけで、
給与をもらえる仕組みを作るなんて、
さすが頭のいい人ばかりいるメディアは違うな」という事ですね。
はい、皮肉屋ですみません。

正直なところ、最近の様々な問題を見ていると、
情報の正誤にははまったく配慮されていない気がします。

「誰かが自分の利益のためにズルをしてそうだから許せない」
「何か悪いことをしようとしているから許せない」
「何か自分の権利が侵害されるかもしれないから許せない」

といったような、不明瞭な事実と曖昧な不安がまじりあった、
感情的なものがうごめいているように見えるのです。

例えば、どれだけの人が検察や検察庁について知っていて、
事実として明確な違反行為であるとわかっているのだろうか?
そういう部分にどうしても目が行きます。

「著名人が言っていたから正しいはず」というのは単なる思考停止であって、あなたが物事を見て確かめ、正誤を調べて判断した訳ではないはずです。人づてに聞いた話とかも同様ですね。

メディアも事実や正しい情報を明瞭に説明し、
各論の正誤を明確にし、結論に至るきっかけを作るアクションが本来は必要だと思います。
そういった機能がほとんど働いてないから、
現在のメディアが果たしているのは、単なる「感情のブースト機能」のように見えます。

「ソクラテスの弁明」という古典の名著を知っていますか?
ソクラテスという人が大切にしていたのは知に対しての謙虚さです。
本の中で、知識人といわれている人であっても、
本当の意味での知識は持っていなかったということを、
ソクラテスは明らかにしていきます。

「知らないという事を知らないと思う」というソクラテスのスタンスは、
現在でも、とても大切な要素のように思います。
しかし、残念なことに物語の最後でソクラテスが死刑になってしまうのは、
自尊心を傷つけられた知識人の感情や市民の誤解からです。

SNSが原因で人が亡くなる事件や炎上事件など様々ありますが、
その発端は、多くが感情であって、知によるものではないという風に思います。
2000年を経てもなお、同じ過ちを繰り返してしまうという意味では、
人間の本質というのはなかなか変わらないという事を示しているように思います。

まず落ち着こう。
そして、知らないことは知らないと思おう。
正しい情報を得てそこから判断しよう。
自分たちの生活をよくするために、それが一番大事なように思います。

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