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父が死んだ日、僕は泣けなかった

父が死んですでに10年以上の時が経っているが、この新型コロナウイルス感染症が席巻する世の中での僕の振る舞い、考えがここから来ているということを記す。

父が死んだ日。

その日はまた彼女だった妻と日帰りで旅行に行く予定の日だった。

その日、二人揃って電車に間に合わない時間まで寝過ごしていたのは不思議だが、とにかく妹に電話で起こされ、父が亡くなったことを知った。

急いで病院に行くと、思ったより安らかな顔の父と、泣きはらしたあとの母がいた。

父は元々身体がよくなく、何度も入退院を繰り返していた。
だが、入院が当たり前になりすぎて、「その日がくる」ことへの想像はすっかりなくなっていた。

僕の結婚式を見たいと言っていた。
66歳だった。

通夜と葬式

長男の僕は喪主だった。

母曰く「葬儀は慣れてる」とのことで、だいたいのことは母がそつなくこなしてくれた。
とはいえ、喪主というのは思ったより大変で、「初七日をすぎるまで感傷的になる暇もない」と葬儀屋にも言われたが、これはまさにそのとおりだった。

父は早朝に亡くなったらしいが、遺体は夜になってもまだほのかにあたたかった。
「もしかしたら生き返るんじゃないか」なんて馬鹿なこと、本気で考えるんだなと自分でも感心した。

通夜では近所の文具店である町内会の会長が、精力的に手伝ってくれた。
小さい頃はよく遊びに行ったが、いつからか付き合いがなくなり、もう15年以上も疎遠だった人が昼から夜から事務方をしてくれて、弔問客の慰労をしてくれた。
「近所なんやから当たり前やろ」って、そんな簡単に言えるのがすごかった。
感謝しかなかった。

「そのとき」

喪主だったから何度も挨拶をした。
葬式では挨拶文も書いて読み上げた。

みんな父のために涙を流してくれていた。

最後に花を入れるとき、驚くほど痩せ細った身体に、花が足りないんじゃないかと思った。
母も姉も妹も妻も、親戚のおじさんおばさん、従兄弟もみんな泣いてくれていた。
泣きながらお別れをしてくれていた。

でも、僕は泣けなかった。

もっと話したかった
一緒にお酒を飲みたかった。
ドライブに行きたかった。

何度も入退院を繰り返しているんだから、いつかこの日がくるのはわかってたはずだった。
元気だった父が突然事故で亡くなったんじゃない。
ゆるやかに死に向かい、そして当然のように死んだのだ。

話すことも、お酒を飲むことも、ドライブに行くことも、やろうと思えばできたはずなのに、自分が日々の生活の中で「やらない」ことを選択した、その結果だ。

父も僕もお酒が大好きだ。
当時いろんなお店に行っていた僕が、「このお店は美味しかったから行こう」って言う機会はいくらでもあった。
車好きの父を、5年ローンで買ったオープンカーに乗せてドライブに行く機会だって、いくらでもあった。

なのに、やらなかった。
自分の意志でやらなかった。

そう思うと、僕はそれを悔やんで泣く権利はないと思った。

自分でやらなかったのに「もっと話したかった」なんて涙するなんて、なんて図々しいんだろう、白々しい。

だから、僕は泣けなかった。

「そのとき」泣くために

父の死に涙できなかったとき、同時に他人の死に涙することもできなくなった。

父の死ですら泣けなかったのに、他人の死で涙する理由がないと思うようになった。

泣くのは全力で生きてきた人の特権だ。
僕はやれることをやって、泣けるようになりたい。
でも、そうじゃないときに失ったことを嘆く権利はない。

そういう死生観になった。

今、やれること

今、新型コロナウイルス感染症の猛威による緊急事態宣言で、多くの企業やお店が危機にさらされている。

僕の大好きな飲食店の皆さんも危機にさらされている。
だから、テイクアウトをやっていれば購入するし、できるだけお金を使えるようにオーダーをチョイスする。

やれることをやれるだけやって、それでも駄目だったら仕方がない。

ただ、やれることもやらずに、収束してから「あー、あのお店好きだったのになー」と言うだけの自分にはなりたくない。
やらなければ、その台詞を吐く権利もないと考えると思う。

だから今日もお昼を買いに行って、Googleマイビジネスの使い方を説明する。

泣くのも笑うのも、心からがいいから。


追伸

いちばん大切なのは、妻です。
妻との時間にまさるものはないので、「妻との食事が一番」である僕の付き合いが悪いのは大目に見てやってください笑

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