水木しげるの戦記漫画「総員 玉砕せよ」を読んで思うこと

最近、戦争について自分の意見を持っておこうと考え、水木しげるの「総員 玉砕せよ」を読んだ。この本は作者の水木しげる氏によるとほとんど事実が描かれている。ニュースや教科書で取り上げられる「史実」よりも本当の戦争が描かれていると考えてこの本を手に取った。この本は有名なので内容については触れるまでもないかもしれないが、この本には戦争という「非日常」の中で軍隊に属する初年兵の「日常」が淡々と描かれている。
本を読んで戦争に対する意見を持つつもりだったが、現代社会との類似点が気になった。戦争にはあまり関係が無いが今回はそのことについて述べる。(読み返して思ったが多少内容がばらつくし過激かもしれない、仕方がないのでご承知おきください)
まず、漫画を読んで衝撃的だった3点について述べる。

1. 人があっさり死ぬ

非日常にあって日常とはどういうことか?それは人の死が淡々と描かれているこということである(例えば、魚を喉につまらせて死ぬ、丸太の下敷きになってその後死ぬ、味方に撃たれて死ぬなど)。本人にとっては当然一大事である、人生が終わってしまうのだから。しかし、人の死が日常となった世界では死は単なる状態、もしくは情報として取り扱われる。

2. 軍への服従、上官からの苛め

軍や上官へたてつくことはすなはち死を意味する。それは実際に死ぬ(切腹)もあり得るし、そうでなくても村八分にされて上官からの苛め・暴力に晒される。初年兵の生き死には上官に完全に握られており、そこに決定権はない。
兵たちが受けるそのような描写も淡々と情報として描かれている。

3. 自分たちは何を守って闘っているのか?(目的の喪失)

終戦直前、日本の本土も空襲されるこの時期に、東南アジアのジャングルの奥地での戦いに意味を見出せないでいる。しかし初年兵にはこの状況をどうすることもできない。また漫画のどこを読んでも国を守るという意識は確認されない。玉砕においても、上官の死に場所を作る決断であり、初年兵はただの同行者にすぎない。

戦争は教訓とよく言われるけれども

以上が本を読んで衝撃的だったことであるが、これって現在の企業のサラリーマンの実態と何ら変わらないんじゃないの?というのが僕の主張。戦争ではないので人が死ぬ訳ではないしいまの時代上司から殴られる訳でもない、国を守って命をかけている訳でもない。でも、どこか似ていませんか?教訓は活かせていますか?

自由な時代に生きる不自由な自分を殺せ

おそらく、組織というのは一定以上の大きさになるとそういう「性質」になっていくのかもしれない。加えて日本的な「習性」があることが現在一般的な生きづらさとなっているのではないのか、というのが僕の観察の結果である。(具体的な観察結果については角が立つといけないのでここでは述べない。)

とにかく組織は大きさや構成によって色んな性質・習性が出てくる。そこでうまくやれる人もいればやれない人もいる、ということ。サラリーマンに限定して言うと、ほとんど配属は運によるので、合わない人がその中でもがいてもどうしようもない、と僕は思う。魚は空を飛べないし鳥は泳げない(泳ぐ奴もいるけどね)。
しかし僕たちには幸い、再選択の自由が与えられている。

一度社会に出て大学に戻った僕は再選択の機会を作った。はっきり言って強くてニューゲーム状態である。僕はこれまでの観察と考察の結果から、大きすぎる組織内には属さない、なるべく色んな文化の人が属する組織にいようというのが現在の結論である。(方法は色々ある。)
もし、現在の環境を観察してみて、違和感を感じるならば何か非日常が日常化してしまっている。そうしたら、違和感の正体をしっかりと考え、自分の意思でそれらを断ち切ることが必要である。これまでの自分と決別すべきだ。

幸い、僕たちはジャングルの奥地にいるわけじゃあないし、切腹もないのだから、その自由を噛み締めて何処へでも行こう、ということ。

ただ

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