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大橋仁写真集『はじめて あった』に会った

写真家・大橋仁。

義理の父の自殺未遂現場を極めて冷静に撮り、荒木経惟をして「凄絶ナリ」と言わしめた『目のまえのつづき』(青幻舎)で1999年にデビュー。以降、10組の出産現場に迫った第2作『いま』(2006年)や、300人の性行為(乱交)を撮った第3作『そこにすわろうとおもう』(2012年)など、見る人によっては強烈な嫌悪感を催す対象を素直に撮る写真界の鬼才である。

2023年に最新作『はじめて あった』(青幻舎)を発表。久しぶりの新作に、長年鑑賞してきた自分はすぐにご本人のサイトから注文した。

大橋仁は何を撮ろうとしているのか。

まずは、本の判型や、大橋さん(以降、敬称略)について知ることのできる紹介動画を貼っておこう。

初っぱなの印象は、とにかく「でかい本だ」。
1万円を超える価格も、日本の写真集としてはいいお値段。
240ページに及ぶ紙も印刷もかなり上等で、1枚1枚に重みを感じる。

トモコスガさんも肩に担ぐほど。

僕は写真集を読むとき、まずは一切の前知識なしに見て、ただ自分の感じるままに鑑賞する。続いて、本の末尾に作者のステートメントがあればそれを読み2周目を楽しむ。さらに続いて、例えば上記のトモコスガさんなどの解説動画や作者ご本人が語った記事などをインプットして3周目の鑑賞に入る。

今回はトモさんの写真知識と、作者本人のインタビュー記事が大いに役に立った。

しかし当の本人は、このインタビュー後に以下のように後悔したという。

もう、これだけでも写真家の命懸けの態度がわかる。伝えたいことを正しく伝えるべく、本が出た後に一文を読者に宛てて手書きで送るなんて・・・・(我が家にも届きました)。

写真集というものは本来読み手が好きなように読むべきで、作者であっても読み方を強制すべきでない。そもそも正しい読み方なんて存在しない。だけれども、この本に関しては「作者はこう考えてつくった」ということをもっと伝えるべきだったのではないか・・・・。

その考えは、ハガキを送ったあとも消えることなくついて回ったのだろう。出版から1年以上過ぎた2024年春、突如、ご本人のSNSでこんな呼びかけがあった。

'99年のデビュー作以来ずっと見てきている者として、これは行かずにはいられない。すぐさま予約を申し出て、当日、重たい写真集をリュックに入れて横浜へ行ってきた。


定員6名の会は当日に3人キャンセルが出てしまい、自分を含む3名の読者と大橋さんの4名で進められた。無料のイベントである。作家の持ち出しである。参加者が半数になったにもかかわらず開催してくれたことに感謝しかない。

電気を落としたレンタルルーム。各自1灯ずつハンディライトが置かれ、まずは15分ほど思い思いに写真集を見る・読む。

冒頭からひたすら続く海らしき写真、の次に、真っ白な何も印刷されていないページ。続いて、SEX後と思われる裸の女性と目が合う。

絶叫する女性、の後に、カメラレンズの絞り羽のように螺旋状に並んだ下着、昆虫・・・・

『目のまえのつづき』にも出てきた大橋のご両親も登場する。

そして、母の死。

決して、母との死別を撮っているわけではない。撮られているのは「母の死」なのだ。死別と死はぜんぜん違う。荒木経惟の『センチメンタルな旅・冬の旅』と見比べるとよく分かる。冷静すぎて恐ろしくもあるが、もしかしたら大橋は、写真集にすることで死別しているのかもしれない。


ここでまた自分の話になってしまうが、『目のまえのつづき』が出た年の僕は美大受験に失敗して浪人生をしていた。高校時代からのめり込んでいた写真熱は東京でさらに高まり、特にアラーキーに傾倒していた(東京都現代美術館で荒木の個展が開かれたのも'99年)。

なので『目のまえのつづき』の帯にでかでかと荒木の「凄絶ナリ」という殴り書きがあるのを見れば、買わざるを得なかった。

『目のまえのつづき』

読んでみると、本に出てくる神経質そうな義理の父も、穏やかな母親も、SEXしている彼女も、どこか自分の周囲と重なるような既視感と安心感をたたえて迫ってきた。見覚えなんてないけれど、見たことのある景色。自分では絶対にシャッターを押せない光景。だから特別な一冊。


話を『はじめて あった』の読み語り会に戻そう。

連続する海の写真を「これは、時間です」と語る写真家。しかしそのことをこうしてテキストに起こしても、あの暗いスペースで語られたひりひりするほど熱いパッションは伝えられない。僕にその文才がないことが残念過ぎるが、受け止めたエネルギーはどうしたって大橋仁「発」であることに意味があり、それをここで文章で再現することは早々に諦めてしまった。ごめんなさい。

ただ、〈この本に関しては「作者はこう考えてつくった」ということをもっと伝えるべきだったのではないか〉という大橋の強い思いは実際その通りだったんだと感じるに十分なイベントだった。あの分厚い写真集にまだまだ僕がキャッチしきれていなかったメッセージが込められていた。

気づいたら予定を1時間超え、3時間が経過していた。

3人の読者も思い思いに語った。受け取り方は自由。大橋の言葉もまた回を重ねるごとに変化していくだろうと言う。

本当に無料でいいのだろうか。たった3名の読者を前に、ここまでさらけ出してくれるとは。この会もまた、1対1で対峙する写真行為と変わらないというのか。

3名だからこそ、僕も自分の性癖についてつい熱く語ってしまった。

「僕も大橋さんと同じなんです。同じだからこそこの撮り方が解せない!というのが最初に見たときの拒否反応でした。僕だったら下着をあんな風に平面的に撮ったりしない。僕は僕の性癖を植えつけたのは鳥山明であり桂正和だと認識しているから、彼らの描くパンティの立体感や柔らかさに敬意を表している。白黒のマンガ発だから色柄よりもフォルムが優先される。けれども今日のお話しを聞いて、別にそれでいいんだと理解できた。つまり、人には人の性癖。そのことに蓋をするどころか肉薄することで、生命の根源にたどり着けるかもしれない」

「みんな違ってみんないい」という結論に達した瞬間、写真家と僕はテーブルを挟んで心の中で握手していた(女性の参加者もいたのに・・・・)。

あらかじめコンセプトを持たない写真集『はじめて あった』は、込められたテーマが幾重にも重なっている。これはいのちの記憶であり、なんびとも抗うことのできない時間への畏敬であり、そこへ向かっていく写真家の宣言が書かれた冒険の書なのだ。

社会性を纏った日々のなかでは触れづらい「性癖」でさえ恥ずかしがらず肉薄すれば、その先にはいのちの記憶が立ち現れる。性欲が無ければ生命はいのちを繋いでゆけない。その性欲を行動に突き動かすトリガーが性癖だ。鳥も虫も強烈な色柄で異性にアピールする。それは彼らにとって性癖を、生命力を刺激することなんじゃないか。なんだ、自分の色柄モノのパンティへの性癖と蝶々の柄は、一緒じゃないか!

この接続を大橋は飛躍とは思っていないところが凄い。確かな繋がりを発見したのだ。

やがて自分を産んだ母にも繋がる。大橋は今回、この写真集をつくる中でひとつの公式を導き出した。それが『はじめて あった』。

だから彼は言う。

「この本を使ってほしいんです。使える写真集になっちゃったんです。あなたの性癖は何ですか?あなたの強烈に心を揺さぶられる性癖は何で、どこに繋がりますか?ということを、この本を通して一人ひとりが考えることができる。そういう本ができちゃった」

性自認について10年前とは比べられないほど細分化されて語られ、さまざまな当事者の存在を知ることとなった現在において、大橋の紡ぐ世界の見方はある種のハレーションを生む懸念もある。でも、表面的に見ればそうかもしれないが、「正しく」鑑賞すればそれは杞憂だということがわかる。

大橋が見つめているのは、あのハガキに書かれたことなのだ。じゃああの文章だけで伝わるかといえばもちろんNOで、写真でなければ留められない。

そして、今回はこれまでのどの写真集にも増して、見る人と一緒に「その先」を見たがっている。見る人それぞれの「その先」も考えて感じてくれたら嬉しいと願っている。

『目のまえのつづき』から最新作まで、一貫していのちの記憶を撮ってきたという大橋。この創作活動の冒険は一生終わらないという。

「1作目、2作目、3作目、そしてこの4作目っていうんじゃなくて、死ぬまでにつくる全部の写真集でひとつの写真集になると思っている」

・・・・マジか、もうそれ『火の鳥』レベルの話じゃん。
かつ、今作のわかりづらさでいえば押井守に匹敵するかもしれない。

けれどマンガやアニメと異なり、写真は撮影者が被写体と実際に対峙することから始まる。そして衝動がピークに達した瞬間を切り取る。大橋の写真集はピークの連続なのだ。

それが死ぬまで続くという。

『目のまえのつづき』どころではない。
『はじめて あった』の衝撃がつづく。

なんのこっちゃ、と思われるかもしれないが、『A Series of Firsts』という英語タイトルが理解を助ける。


『はじめて あった』には、「はじめて」と「あった」の間にスペースがある。写真集にも空白のページが何度も挟み込まれる。

「この空白を見てほしい!余白じゃない。白なんだ。無にこそ何かがある。人間が生きていくとは、初めての連続なんだ。その初めてと出会ったときに何があるか?この無のスペースに何が入るか?それを見つめてほしい」

写真集とはつくづく、写真家による人生哲学書だと思う。その人の見つめる切実さで出来ている。

その日、25年間何度も読み返した『目のまえのつづき』にサインを頂いて家路についた。


ここまで読んでいただいた方には、ぜひ、文春オンラインの記事に加えて写真も掲載されたこちらの増補版の記事を読んでいただきたい。

大橋仁さま、ありがとうございました。

写真集『はじめて あった』

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