見出し画像

飲茶『14歳からの哲学入門』概要と感想

普通の人が抱くような悩みは、たいてい昔いた天才が人生をかけて研究し尽くしている。ならば先行研究を調べればストレスフリーに生きられるのではないかと、一番読みやすそうな哲学の本を購入。

表紙が『ポプテピピック』だったので若干不安を抱いたが、内容は想像以上に本格的かつわかりやすかったので詳細をお伝えしよう。

理性の時代

近代哲学では、まず科学的に「正しい結論」を導き出すにはどのように思考すればいいのか、2つの流派が生まれた。

大陸合理論

演繹法:理性重視。デカルト(1596年 - 1650年)「我思う、ゆえに我あり」。論理的な思索を土台に、新しい結論を築き上げていく。三段論法「A=B」「B=C」=New!「A=C」、ユークリッド幾何学。「証明する必要のない、明らかに自明な法則」から導き出された公理、公理を元に定理を導き出す。
→神によって与えられた理性から導き出した公理は自明!といいつつ公理は正しいと証明されていない。

イギリス経験論

帰納法:経験重視。ヒューム(1711年 - 1776年)「私とは、知覚の束に過ぎない」。実際に観察された事実から共通点を見つけ出し、暫定的な結論を導く。理論や法則より観測事実を優先。
→あくまで暫定的な結果なので、永遠に正しい結論には到達できない

Q. おいおい、ならどうして経験したことないペガサスや神を私たちは知っているんだい?
A. 複合概念。ペガサスは馬と翼、神は絶対的な権力を持つ王や親の経験が複合してできた想像上の産物。
→神が与え給うた合理的理性で理論を積み上げていけば、いつか「正しい結論」に到達できるという道筋が途絶える

カント(1724年 - 1804年)が大陸合理論とイギリス経験論を融合させる

・『世界』(世界そのもの、5感でも感知できないものを含めたすべて、モノ自体)の一部を『人間共通の装置』(脳や感覚器官)が読み取り、『経験』(見る、聞く、わかる)する。
・『人間共通の装置』で読み取れるもの:幾何学や公理など合理的な法則→演繹法による理論が成り立つ
・『経験』によって構築できるもの:観察や実験結果→帰納法による理論が成り立つ

→「正しい結論」が導き出せたとしてもそれは「人間にとって正しい結論」でしかない。ここが人類の限界点であり、現代哲学の出発点。「正しい結論」を導き出せない世界でどう生きるかが焦点に。

ヘーゲル(1770年 - 1831年)(近代哲学の完成者):諦めないで!弁証法使って人間にとって不都合なこと不可解なことを世界からひとつづつ消していこうよ!というヘーゲル弁証法。ちなみに「正しい結論」であるゴールは「真理とは全体である」ということ。世界を理解するとは、すなわち世界そのものになることだよ。東洋哲学の梵我一如、悟り、無為自然とほぼ同じ結論。

実存主義の時代

実存主義の実存とは『現実存在』の略。前の時代は『本質存在(正しい結論)』ばかり考えていたので、これからは『現実存在』を大切にしましょうね、で実存主義。現実存在とは、実際に見たり触れたりできる個々のモノや出来事のこと。

人間とはこういうものだと本質を定義しても、自由意志をもって否定できる特別な現実存在である。人間とは合理的に考えた結果「こういうものだ」と本質を定義できない、なぜなら自分で自分の生き方を決めることができる「意志」を持っているから。したがって、「実存は本質に先立つ」サルトル(1905年 - 1980年)。

サルトルはここからもう一方考えを深める。人間はこういうものだと定義できないが、ペーパーナイフはどうだろう。紙を切るために存在すると本質を定義できそうだが、人を刺したり柄で釘を打つこともできる。つまり、この世にあるすべてのものは「こういうものだ」と本質を定義できない。

世界とは「こういうもの」だと本質(意味)を定義できない無慈悲な場所。だが、世界に意味がないなら自分で作ればいい。実存はすでにあるのだから、本質を実存ベースで勝手に定義して作り上げよう!『ヴァンドレッド』とか『グレンラガン』みたいなロボット物ってこういうの多いよね。熱い展開、燃えるよね。

ちなみにこの思想、「自分の人生の意味は自分で作るんだ!我らに自由と発言権を与えよ!禁じることを禁じる!」と学生運動の燃料になったとか。パリの五月革命(1968年)とか。パリも燃えている。

構造主義の時代

フロイト(1856年 - 1939年)によって人に「無意識」が存在することが判明。自分の意志で決める!という前提が、それ自分の意志じゃなくて無意識に影響されてるだけじゃねと指摘され、前提が崩れる。

じゃあ人類共通の無意識ってなんだろねと文化人類学者のレヴィ・ストロース(1908年 - 2009年)が構造主義を考案。様々な社会を分析し人類共通の構造を探す。構造を理解できれば社会を深く知ることができ、なにか新しいものが生み出せるかもしれない。
例:じゃんけんの三すくみ構造→三権分立制

「今まで未開だと言ってバカにしていた部族のものも含めて、世界中の◯◯をすべて並べて比較して、その背後に隠されている『共通の構造』『普遍的構造』を見つけ出そう。すると、◯◯をより深く理解できるし、その構造を利用して、さらに新しい◯◯も作り出せるかもしれないよ!ひゃっほーい!」

飲茶『14歳からの哲学入門』

こんなノリで哲学者だけでなく音楽家や建築家など幅広い識者たちの間で流行する。ホラー映画の「共通の構造」を取り出した『キャビン』や『スクリーム』はとても構造主義的な作品だ!

ウィトゲンシュタイン(1889年 - 1951年)は「言語の構造」に着目する。言語とは思考であり、言語を使わないと思考はできない。

前期ウィトゲンシュタイン:「語りえないものについては、沈黙しなくてはならない」

  1. 世界とは、事実の集合である

  2. 言語とは、その事実を記述したものである

  3. したがって、言語とは、世界(事実)を写し出す鏡(像)である。
    →神とか愛という事実は正確に確認できないので語れない。

ある日「これどんな意味?」と友人がアゴをこすりながら聞いてきた。普通なら言葉のままの意味と捉えるが、ウィトゲンシュタインの地元ではアゴをこするのは相手を侮辱する仕草なので、友人は「よお間抜け!なにアホなことやってるん?アホなん?」と言ったことになってしまう。

同じ言葉でも話し手や受け手など状況によって意味が変わってしまう。言語は事実を記述したものでないことが判明。

後期ウィトゲンシュタイン:「言語の意味とは、その使用である」=言語ゲーム

  1. 言語は使用状況によって意味が決まる。

  2. しかし、言語、使用状況、意味の関係に必ずこうならなければならないという根拠はない

  3. 言葉の意味とは、それぞれの地域(文化圏)の人々が、日常生活を営んでいるうちに偶然決まったもの

→言語とはこうであるという明確なルールはない。野球やサッカーをやるときルールがなければ勝敗をつけることができないように、ルールのない言語ゲームを使った思考では「正しい結論」には至れない。これが哲学を終わらせた哲学。

ウィトゲンシュタインのパラドックス
1,3,5,7,9、□←これに入る数字は?正解は11ではなく10。これは晴れの日は奇数、雨の日は偶数を書いた数列だから。「人間は複数の対象を比較することによって、そこから確実な規則性を取り出すことはできない」。つまりたくさんの人類社会を分析しても正確な規則性や本質を見出すことは不可能。

ポスト構造主義の時代

思考すらまともにできなくなったらどうすればいいのだろう。デリダ(1930年7月15日 - 2004年)は、「正しい結論」に至れないならもう好き勝手に構造やら本質を取り出せばええやんとする。

固定的な真理(正しい結論)を構築するのやめてよう、レッツ脱構築。現象をどう解釈しようとも、それが有用なら全部正解でええやん!どんどん視点をずらして新しい理論や解釈を生み出しまくろうや、という読み手中心主義。「正しい結論」なんて人それぞれ。

まとめ

理性の時代、人間は何ができるか考えるところからはじまったが、一つの時代が過ぎるたびにできないことが次々と証明され、ついには「正しい結論」に到達できないことが証明され哲学は終わってしまった。

万人に受け入れられるような真理はなく、人生の意味も目的もあった!と思ったら実は消費社会が生んだ幻想。そんな現実への一つの処方箋をケインズが残していた。

しかし、人生が耐えられるのは、歌うことができる人たちにとってだけであろう――そして、われわれのうちで歌うことができる者は何と少ないことだろう!

「わが孫たちの経済的可能性」(1930年)『ケインズ全集第9巻』宮崎義一訳、東洋経済新報社

つまり楽しいことしてストレスフリーに生きれれば最高じゃんということだ。
「幸福とは幸福を問題にしない時をいう」と芥川龍之介も言っている。

普通の人が抱くような悩みは、たいてい昔いた天才が人生をかけて研究し尽くしている。ならば先行研究をあたろうと読んでみたが、斜め上の方向に解決策が示されていた。

自分の結論としては「人間にできないことが分かったので、なにかに期待せずできる範囲で頑張りながら、今を好きなことして楽しむのが最高」かなと。実際のところ、積んでる本やゲーム、漫画やら映画、アニメが人生があと100年あっても消費しきれないほどあるので、早く働かないで生きていける社会になってほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?