【紀行文】日本最高峰の博物館に沼る! 歴博再訪~縄文人の祈りを考える
縄文の人々は何を祈ったのか
祈りには、自らのために祈るものと、他者のために祈るものと、そしてさらに大きな存在に対して祈るものとあると思う。
最近、心理学の勉強を始めたのだが、その中でエリクソンの発達段階(8段階)について知った。年齢を重ね成長していくにあたり、そのステージに見合った感覚を獲得していくのであるが、その際に重要な関係も異なるという。乳幼児や幼児期は、母性や家族であるが、徐々に仲間や集団、そして人類へと重要な関係が広がっていく。
これを踏まえ、関係=祈りの対象と考えてみた。
青年期、つまり受験期や思春期は、自分のために祈ることが多かった。成人期に至り、子供が生まれ、家族や子供のために祈ることが多くなった。最近は、日本人や日本国土といった広い関係に対して祈りたいという感覚が目覚めてきたのである。
かつて大人が神社やお寺で一心に祈っている内容を聞くと「平和」と返ってきた。青年期にはピンとこなかった、その感覚が年を重ねた今、実感されてきたのである。
さて、縄文の話に戻る。
もし、私がかつての西洋学的な歴史観に立つのであれば、縄文人は幼い精神構造しか持たないため、高度な観念は持つことが出来ず、日々の暮らしや食料の確保についてのみ関心があったと思っていたかもしれない。
しかし、今や縄文時代はかなり高度な文明であったことや近代に通じるような集団生活や文化構造なども持っていたらしいことが分かっている。そして、レヴィ=ストロースが看破したように、人類は科学的には発達したかもしれないが、その神話構造や精神構造においては、コアな部分であまり変化していないようなのだ。
このことから、私は縄文の人々の精神構造はその血を引く我々に引き継がれており、その「祈り」について、残された装飾品や土偶、その他遺物などから窺い知れるのではないか、と思っている。
もっと言えば、虚心坦懐に見つめていると縄文人の祈りに「共感」できるのではないかと思った。
文字を持たなかった縄文人?
縄文人は、小規模の集団生活を営んでいたようだ。多くても数10人~100人程度であったであろう。その集団の中で、文字は発達しなかったのか、
起伏に富んだ日本の国土で狩猟生活をしていく中では、文字の必要性は薄かったのか。それよりも生活必需品である土器に、必要なイメージを刻んだのかもしれない。
なぜ文字が発達するのかと言えば、それはある程度の階層化や統治のためのルールが必要になってきた場合であろう。
少数のグループで分かれて生活していたため、大きな集団は形成されず、社会階層化が進まなかった。階層化に伴う細かな社会規範が必要なかったため、文字と言う文化は発達しなかった。その代わりに、縄文土器のような高度な抽象性を持つ芸術文化が華開いたのであろう。
今は抽象的にしか認識できない模様が、いつかは図像学の発展により文字として解読され、現代に生きる我々にもわかるメッセージに変換される時が来るかもしれない。
実際、土器の一部の文様には規則性が見られ、署名のような機能を持っているのではないかと言われるものがある。私は、これだけの精神文化を持った縄文人が、記号を使わなかったとは考えられない。論理的な文章を伴う文字文化はなかったかもしれないが、集団内で共有した「記号」は持っていたと思っている。
アクセサリー、そして土偶に込められた思い
当時のアクセサリーには、線画や何かを象ったものが見られるようだ。何かを象ったものとは、動物であったり、陽物あったり、人形であったり、おそらく何か気に入ったものを肌身離さず持っていたいという表れであろう。
線画はどうであろうか。ただ単純に石を傷つけたとは思えず、精神の抽象化が進んでいるのであれば、やはり何かのメッセージが込められたものと取るべきであろう。
アクセサリー類には、メッセージ、もっと言えば呪術が込められている。
私は、アクセサリーを身に着けた人が、無事に狩猟や採集から帰ってくることを祈る思い=呪術が込められていたのであろうと思っている。
アクセサリーは今でこそ、自分のために作るものもあろうが、もともとは誰かが誰かの為に思いを込めて渡したものであろうと思う。
誰かが誰かのために思いを込めたもの、それは誰かの無事を祈るものに違いない。集団が小さく、貧富の差が小さかったその時代に、見える範囲の仲間の無事を祈ることが一番切実だったのではないか。
さらに、発展していえば、私は土偶もそのような目的で製作されたのではないかと思っている。土偶は、その一部が欠損して発見されることが多いらしいが、その一部が遠く離れた場所で見つかることもある。
突拍子もないことを言えば、縄文人は現代人と違い、共感能力に優れており、土偶を通じてテレパシーを通わすことができたかもしれない。
縄文人は、家族が作った土偶の一部を携帯し狩猟に出る。親近者は、土偶本体を大事に持ち歩き、無事を祈り、また遠く離れた人と思いを伝えあったのではないか。少なくともそのような思いをつなぐ役目があった。
土偶は今でいう携帯電話のような役割を果たしていたのではないか。これが、今私が思っている、土偶の用途である。
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