不登校の自助会 ブログの方針と匿名性 改めましての自己紹介

ここ最近は色々あったのだが、色々あったと書いている内にまた色々あったので、今日あった事を書く。


不登校の自助会


不登校の保護者の方達の自助会に行ってきた。二種類あるのだが、これで合わせて7回目ぐらいだろうか。

実は11日にも同様の予定があったが、その日は頭痛が酷かったので欠席する事にした。出席したのは多分2ヶ月か3ヶ月ぶりだと思う。

今回行った二種類の内の1つの自助会は、使わなくなった学校の校舎で行われていて、初めて足を運んだ時は「うわあ~学校だ」と、何とも言えない気持ちになった。いつも5~8人程度の保護者の方と、教育委員会、市の職員、スクールカウンセラーなどが出席して、2時間程度の近況報告や悩みごとを相談するというものだ。

まだ、慣れない。一番はじめの頃に比べればマシにはなったが、それでも緊張はするし、呑気症に近い症状が出て、吐き気を催すような感じになる。系統的脱感作と言って、不快反応をわざと引き起こして(近づいて)徐々に徐々に慣らしていく方法があるのだが、そういうものだと思っているので、いつも体調不良も織り込み済みで行っている。


母は人前では無口な方なので、基本的に私が話をするのだが、今日はいつもと違っていた。というのも、自助会に来ている親御さんの娘さんが悩みを抱えているらしく、それを市の職員さんに相談したところ、市の職員さんが私の意見を聞きたいということになったらしい。似たような事なら普段もあるのだが、今回は私個人を名指し!で、しかも本人が奥の方(姿は見えない)で聞いている。

全員の視線が一気に私に集まって、なんだか聞き取り調査のようでとても緊張したが、ひとまずは事なきを得た。悩みというのはプライベートな事なので詳しくは書けないのだが、話を聞く限り相当キツかったんだというのがひしひしと伝わってくる。しかし、緊張したね。だって本人が聞いていて、目の前にはその親御さんが居るんだから。かなり言葉を選んだ。

言葉を選んだというのは、私の個人的な体験や感覚を聞いた親御さんや援助者が、そのまま当人に「こうなんでしょ?」と押し付けてほしくないからだ。苦しみは個別化されていて、例え全く同じような体験をしていたとしても、大きさも深さもまるで違う。だから本人から直接聞くのではない状況で安易な事を言うべきではないな、と思ったので「私の場合は」という個人的な体験をお話する程度でお許し頂けた。

話している最中、個人的な体験をブログに綴っているという事を言うと、気にいったらしく、悩みを相談してくれた子にも勧めてみるという。色々と話して終えた後、隣りの廊下の方へ呼ばれ、聞いていたご本人と少しだけお会いした。要は「ブログは何処で書いてるの?」という事だったので、noteを教えた。私の書いている物を見せるのが一番早いと言われたが、それは恥ずかしいのでちょっとね。

今回の事で実感したが、やはり援助者と呼ばれる職業は、自分の一挙手一投足が相手に途方もない影響を与えるものだなと深く思った。でもこれって、何も支援の場だけではなくて、日常の対人関係全てに言えることだよね。


その方の悩みについて、少しだけ整理してみたい。相談内容をどこまで書いていいのか迷うが、普遍的なものなら大丈夫だと思うので、一例を切り取って話す。彼女は「何もしていない時」が苦しいという。ワーカホリック気味というか、何もしていないと脳が悩みはじめるんだろう。

私の場合、悩みというは「自責」か「存在」の事なんだ。人間の悩みには大きく分けて二種類あると思っていて、一つ目が「対人関係の悩み」で、もう一つが「存在論的な悩み」だ。対人関係の悩みというのは誰しもが持っているだろう。「存在論的な悩み」というのは「なぜ生きているのだろう」とか「生きるとは何か」「生とは何か」というような悩みだ。

コーチングなんかだと「実在的不安」と言っていたが、名越先生は「存在論的鬱」と呼んでいたので、存在論的な悩みという事にしておこう。

問題は、この二つの見極めが極めて難しい事だ。特に日常生活に不満は無い、家族もいるし、仕事も順調で対人関係で悩んでいる訳でもないのに、ふっと「死にたい」とか「消えてしまいたい」というのは存在論的な悩みと言っていいだろう。反対に対人関係の何かで悩んでいて(無意識にでも)そこからの逃避として「死にたい」だとか「消えてしまいたい」と思っているなら、存在論的な悩みではない可能性が高いと思う。

また、元々は人間関係の悩みだったが、哲学などに触れる内に存在論的な悩みだと無意識の内に偽装してしまっている方もおられるように思う。野田俊作先生はよく「環境(周囲との対人関係)をそのままに、内的な認知構造だけ触ってもダメなんじゃないか」と言っていたが、このような人を見ていると本当にそうだと良く思う。そのまま突き抜けると逆に行動が変わって、結果的に良くなる方も多いので決して悪いと言っているわけではない。

存在論的な悩みだった場合、直接でないと伝わらないものがある。「何もしていない時が苦しい」というだけでは分からないのだけれど、色々と聴いていると、恐らくは対人関係ではないかと踏んでいる。

「何もしていないと怒られる(何もしていないのは悪い事だという条件づけ)→何かしていると怒られない→いつも何かをしているようにするが、オーバーワーク気味になってしまい、何もしていない時に自分を責めてしまう」といった感じだと思う。怒られるというか責められるというか、まあ乱暴で単純な論理だが、こういう風に感じた。

「何もしていない」というのは現象としての事実なだけであって、感情的に自分を罰する必要は無いという事を伝えたかったのだが、なかなか難しかった。これはある種ギャンブル的で、相手が「あぁ自分は感情的に罰してしまっていた」とスッと受け入れてくれる場面と、それ自体が悪いことのように感じてしまって更に沈むような人も多いので、ここを上手いことやるのがプロなんだろうな。

私は大前提として、一度自分の全てを肯定された上でないと人間動かないような気がしている。私に言われたから随意的にそう思うのでは無くて、不随意にそう思えるようにならなければいけないと思うのだ。

ああ、なんだかこう書いていると、ああすればよかったこうすればよかったという考えがどんどん湧いてくる。私の周りだと、存在論的な悩みを抱えている人が多い。この問いを広げられるかが、治療者としてのある一定のレベルの違いなんじゃなかろうか。


それでも、帰り際に親御さんからお礼の言葉を頂いたのが何よりの救いだ。疲れたが、とても気分のよい疲れだ。

ブログの方針(顔写真)


雑記というのに日々の出来事を主にまとめているつもりなのだが、悪い癖で直ぐに考え事をしてしまう。タイトルが不格好になるので嫌だったのだけれど、今後はこの記事のように、最近あった出来事や随筆をまとめて出すような形にしようと思う。もちろん個別の物は個別で。多動的なので、この方がいい。過去の記事とマガジンの整理もしなきゃな。


上の方に「このnoteを見せるのはちょっとね」というような事を書いたが、私個人としては身バレしても全く問題は無い。流石に母の不倫相手や母に直接見られるのはごめん被るが、それ以外の同級生や兄弟や親戚(まあワーカーさんにも)には別にバレてもいいという前提で書いている。

むしろそれを狙っているまであって、一番はじめの記事に結構詳細な住所や経歴が載っているのは、私が転校する前の同級生や後の同級生が見たら「ああ、もしかしてアイツか」と分かるように意図して書いている。いい縁起がないかなぁ~と待ち望んでいるのだが、今のところない。

名越先生が「Twitterは匿名で書くと内容に責任が取れなくなるから、実名でやるべき」と仰っていたらしく、最近それを実感している。「私」として活動しないと、なんだか露悪的になる事が多いような気がする。検索で引っかかるとあれなので、名前を出すのはもう少し後にして(別に出してもいいんだけれど)顔を出そうか。

今は多くの人が匿名で好き勝手言える訳で、ある点ではメリットだが、全体としてはデメリットだろうなあ。田舎だと、長いこと住んでいれば周囲の人には顔も名前も家の場所も知れている訳だし。匿名制に埋没するのは、要は誰かから罰せられるのを恐れて隠すという賞罰教育の成れの果てなんだ。きっとね。「教育は、心の中に他人を監視する目を作った」とはよく言ったものだ。罰を恐れて道徳的に生きるのは、あまりいい話ではない。

世界への信頼感というのがようやく育まれたので、自信を持って? 顔を出す事ができる。ネット上には良心的でない方もおられるだろうが、まあいいでしょう、何かあってもそれも縁起です。「善良に生きておれば、必ず誰かが見てくれている」というのを幼い頃から信じているのでね。



…と言いたいところだが、実はもう出している。運のいい人なら見れただろうが、スキへのリアクションを更新して、十分の二の確率で私の写真が出てくるようにした。


心霊写真


とんでもないお顔をなされているが、これは私が撮った写真ではなく母が自撮りをした時に、たまたま私が映りこんだものだ。

実はここ、撮影場所は墓地なのだ。ちょうど叔母の一回忌で、その時に撮ったものなのだが、私の記憶が正しければ最初はこんな風に二重にぼやけていたりはしていなかったはずだ。面白いいたずらをするものだね。笑えるからいいけど。

この当時は確か13だと思うが、私の13歳から下の写真は少ない。両手で数えられるほどだと思う。だから貴重なんですよ()


最近のもの

後ろに色々とあるがお気になさらず。母の部屋で、撮影者も母だ。無印の化粧水が合わずにニキビが出来ているのであまりいい写真ではないが、他のはもっと酷いのでこれで良しとしよう。せっかくなので、誰かに体癖を見てもらいたい。

写真を撮られるのは昔は嫌がっていたが、最近は拒絶するまでではなくなった。私のアルバムには母の写真が沢山あるが、無意識の内に母を失う事を恐れているのかもしれない。母はよく私の写真を撮ろうとするが、という事はあれもそうなんだろうか。ともあれ、これで私は電子化された世界でひたすら生き続ける事になるわけだ。野田先生のようにね。


なんだか落ち着いたな。これからは自分として語れるわけだから。ともあれ、不悪口の修行は大分楽になれそうだ。

改めましての自己紹介(リアルな方へ)

実際に会った人がこれを読むことを想定して…

という訳で、自己紹介ですね?

こんにちは、はじめまして。

Tacky(タッキー)といいます。ダサいという意味ではなく、本名からの捩りです。母の仕事先ではTacky,Jr.と呼ばれていました。個人的に知っている人は分かるでしょう。名越康文という人と野田俊作という人に憧れています。

2006年1月28日産まれの17歳で、男性ですが、たまに男性という事を忘れます。セクシュアリティは「ノンバイナリー」というのが一番近いんでしょうが、あまり何かにアイデンティティファイしたくないので、普段は使いません。説明するのが面倒なので「全性愛者(仮)」を名乗っていますが、関心は男性寄りです。

小学校6年から学校に行っていません。中学も高校も行ってません。その間はうつ病の母の介抱をしていました。病んではいませんが偶に無気力期間が訪れます。目下の目標は高認取得とアルバイト。

趣味は音楽を聴く、歌う、演奏する事とゲームです。ストーリー性があるRPGを与えると泣いて喜びます。ストラテジーやシミュレーションは無限に時間を食うので禁止中。去年に金策でコンシューマー機を売り払ってしまったので、長い事腰を据えてプレイしていません。恋しいです。

音楽は明るい曲調の物を好みます。70年代~80年代の邦楽なども好きです。玉置浩二さんの魅力にようやく気付きました。好きなアーティストの曲を網羅するように聴くというより、ひとつの気にいった曲を何百回と聴くタイプです。新規開拓をしたい気持ちがあるので、誰かボカロの良さを教えてください。


興味関心は臨床心理学、精神医学、思想、哲学、宗教と多岐にわたりますが、根本にあるのは野田俊作という人の思想的遍歴を追う為です。名越康文という人の追っかけをしていたら、この人を見つけて一人では済まなくなりました。どうしましょう。実際本当に好きなのは、アドラーと仏教ぐらい。

アドラー心理学や仏教の話を多くするかもしれませんが、これはこの二つを人生の軸にしようと思っているからです。将来はカウンセラー(心理士,師とはあえて言わない)になりたいと思っていますが、最近どうやら私の無意識さんは歌手になりたいと企んでいるんじゃないかな。

「大人」が嫌いです。嫌いというか「信頼」していません。デフォルトで好感度-20ぐらいです。意識して嫌いな訳ではなく、無意識的に嫌いです。この大人は観念としての大人です。もちろん現実の大人は、好きな人と苦手な人の両方が居ます。が、同年代にも苦手意識があります。現実で付き合うなら大人の方が楽ではあるので。

関心のある人を記します。以下敬称略

名越康文、野田俊作、頼藤和寛、森川すいめい、斎藤環、神田橋條治、中井久夫、野口晴哉、野口裕之、森田真生、甲野善紀、中島智、梶川泰司、植島啓司、東浩紀、千葉雅也

若干多動的な傾向があるので、じっとしているのは苦手だし、人と話す時も何処か動かしていないと落ち着かないし、ひとつの物事に継続して取り組む事も苦手です。本を読み始めて10分たったらピアノを弾いて、10分たったら何か書いて、10分たったら廊下を歩いてたりします。

文体は野田俊作先生の真似ですが、個人的にはガチガチの口語体が好きです。真似なのであんまり自分っぽくない為、なんだか怖い人と思われているんじゃないかと勝手に感じています。

個人的な人格理論にのっとると、人それぞれ木の根のように根底の部分はあるけれど、一応はどのような人格にもなれると思っているので、野田先生の娘さんみたいに

「寒いです~。
昨夜、窓際に飲みかけのお茶を置き忘れて寝たら、ぱっちり凍ってました。
あうあうあー
家の前のよくぬかるむ砂利道もしょっちゅう凍ってます。
あんなところで滑ってこけたら、ものすごーく痛いんだろうなぁ(T-T)

金欠著しい今日この頃、NHKの集金をバックレ、水道の請求をバックレ、そういえば国保もバックレたので保険が切れたにゃあ(笑)
でも現金ないんだもーん
こういう時には事故に遭いたくないもんだとしみじみ思うのであった。」

という感じでも書けるし、最近の同年代っぽくも書けるんだけどね。案外こういう文体の方が、毒気が無くていいかもしれない。

こんな感じでしょうか。今度もし「どんな記事を書いているんですか?」と聞かれたら、この記事のリンクを送ろう。

おわりに


私に相談してくれた(という表現は正確ではないが)女の子は私よりも年下で、話を聞いていると、色々と私と境遇が似ている。「ネットの海で偶然見つけたらよろしく」と言っておいたので、もし見つけたらどうぞよろしく。こんな人です。

話の中で人が怖いと言っていたが、凄くよく分かる。コンビニに1人で行けるかと聞かれたら私もまだ怪しいもんな。今の時代、ある種の克服しなければならないという目標は切り捨ててもいいと思うのだけれど。まあとにかく、少しでも同年代の人と関わるという目標は達成できた訳だ。

野田先生が「この仕事(カウンセラー)をやっていると、世界に必要とされているという事を実感として感じられる」というような事を何処かで言っていたが、同じような感覚を覚えた一日だった。