「普通」という言葉の支配性

向後先生が「短文主義」という事を言っていて、なんでも、一つのテーマに約1000文字、200文字ずつで5段階に分けて書くというものらしい。普段「です・ます調」は、なんだかくすぐったくて使わないのだけれど、私の書くものは毎度長いので、一度練習の為に軽く浮かんだテーマで書いてみることに。

決して不登校の自助会へ行った疲れで寝込んでいるとか、前回の「ふたりの友へ」を書くことで人生の体力の10分の1を使ったせいだとか、そういう事ではない。まあ軽い気持ちで読んでください。各論3が思いつかなかったので、今回は4段階です。1000文字以内だから読みやすいと思うよ。


普通

「普通」とOxford Languagesで辞書を引くと、以下のように出てきます。

いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま。

今回は「普通」という言葉が持つ支配性と、その言葉の支配性にどうすれば左右されないのか、という事について考えてみたいと思います。

普通という言葉の支配性

「普通はこうでしょ」や「普通は違う」と、会話の中でも使われますが、これらは相手への否定文として使われる事も多いです。

「普通」という言葉には「ありふれたものであること」とあるように、「一般に」という意味で使われる事もあります。

これは「普通」という言葉自体 に「他者の存在」を想像する人が多く居る為「普通は違うでしょ」と言われただけで「多くの人達が自分の事を否定している」という意味で受け取ってしまう方が多いからです。これにより、使い方に気を付けなければ、とても支配的な言葉になってしまいます。

アドラー心理学から考える普通

アドラー心理学で「普通」という言葉に当たるのは「共通感覚 common sense」でしょう。野田はこれを「社会的に共通した善の感覚」と定義していました。もっと簡単に言い換えれば「社会の常識」です。

なぜ「感覚」という言葉を使うのでしょうか。それは、共通感覚とは直感的なものであって、理性的なものではないからだ。という認識だからです。

平たくいえば「当たり前と信じられている事が正しいとは限らない」ということです。もちろん、これは今の命題に当てるため誘導的に解釈していて、その逆に「理屈だけで考えている事が正しいとは限らない」とも読めます。

普通という言葉に縛られなくていい

「普通という言葉に縛られている状態」というのは「誰かから罰せられる事を恐れている状態」と同義です。もちろん、悪意を持って相手を傷つけようとする行為は破壊的な行いですが、自らの信念に従って発する行いは、それが本当にあなたの伝えたい事であるならば、必ず誰かに届きます。

相手を叱る事によって変えようとするのは、相手の主体性を酷く奪ってしまう行為です。誰かから罰せられる事を恐れて生きるのは、あまりいい生き方ではありません。1番大切なことは、己が心の信じる道に従うことです。