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静岡サッカーの衰退…。J2国立開催で見えてきた、それでも残された確固たるプライドとクラブの財産。

サッカー王国静岡?


「確か、静岡出身だったよね?今度の日曜日、空いてない?ちょっとサッカーの試合に出て欲しいんだけど。サークルのメンバーに欠席が出て、人数足りないんだ」
私は大学時代、何度もこの様に声を掛けられた。確かに私は静岡出身で(東部の富士山麓だけど)、小学校では、地元のサッカー少年団に所属して、毎日毎日ボールを蹴っていた。でも、本来飽きっぽい性格で、何をやっても長続きしない私は、中学は野球部でファーストだったし、高校は陸上部で1500mの選手だった。さらに大学時代には、モータースポーツに乗り換える尻軽っぷりだった。サッカーの試合に助っ人として呼ばれるほど、上手い要素など、ひとつもないのだ。自分の経歴を丁寧に相手に説明しても、決まって同じ答えが返ってくるだけだった。
「大丈夫。静岡の人って、みんなサッカー上手いじゃん!」

私は、1996年に大学に入学した。今や、サッカーワールドカップに出場することなど当たり前となったが、当時まだ、日本は世界の檜舞台に立ったことはなく、その機会は、さらに2年先、1998年のフランス大会が初だった。

ワールドカップ初出場時は3戦全敗
唯一の得点を決めた中山雅史も静岡出身

日本が初めて世界と戦ったその大会は、登録メンバー22人のうち、静岡出身の選手は、なんと9人!さらに付け加えれば、岡田武史監督の「外れるのは、カズ、三浦カズ」で有名な記者会見で、大会直前で帰国することになった、三浦知良、北沢豪、市川大祐の3人のうち、2人は静岡出身者だ。今となっては考えられない比率である。逆を言えば、それだけ静岡サッカーが日本のサッカーを牽引してきた確固たる証拠でもある。

静岡のアイドル


私にとっても、幼少の頃から、アイドルといえばサッカー選手だった。Jリーグすら発足する前の話である。じゃあどの選手が好きだったのか。マラドーナ?ジーコ?リティ?答えはノー。
当時私を熱狂させていたのは、世界のスーパースターではなく、清水東や清水商業、東海第一といった、静岡県高校サッカーの選手たちだ。中でも、私が住む富士宮市出身ということもあって、東海第一の澤登正朗選手が大好きだった。毎年、正月におこなわれる高校サッカー選手権の全国大会で、勝ち続ける静岡代表の高校を、幼心にも誇りに思っていた。私だけではない、その当時の静岡の子供達は、みなそんな感じだったと思う。

私と同年代の静岡の子供たちは、この番組を見て育った

KICK OFF


そこには、早くからその土地に根付いたサッカー文化と人気が、大きく関係していることは明らかだ。その歴史について今は割愛するが、多くのテレビ番組で、サッカーに関する露出は多かったことだけは確かだ。今から30年以上も前から、静岡ではサッカー専門番組が存在し、高校サッカーを中心に、中学サッカー、さらには少年団の大会にいたるまで放送されていた。サッカーがとても身近な環境だったと気づいたのは、大学進学のために静岡を離れた時だった。そして、静岡サッカーの強さが捻じ曲がった状態で他県に伝搬していることを知ったのも、やはりその時だ。当たり前だが、静岡人全員がサッカーが上手いわけじゃない。ただ、想像して欲しい。もし、草サッカーの試合で、相手側に、明らかにポルトガル語を話す、腕にぎっしりとタトゥーの入ったブラジル人がいたとしたら、どう思うだろう。きっと、絶対に上手いはずだと身構えるに違いない。たぶん、僕が大学生だった当時は、静岡出身者はその様に思われていたのだろう(友人からも同様のエピソードを聞いているので、ソースは僕の体験だけではない)。そのくらい、静岡といえばサッカーが強い、それが共通ワードとして認識されていた。

清水エスパルスの存在


高校1年生の時、Jリーグが華々しく開幕した。何の疑いもなく、清水エスパルスを応援することになったのは、地元のクラブであるという以外に、僕にとってのアイドルたちが、高校卒業後にそのまま在籍していたことに他ならない。当然、澤登もいた。背番号は、10。
Jリーグ開幕当初の他クラブが、実業団の母体を持つクラブであったのに対して、清水エスパルスはゼロからスタートした市民球団であり、そういった経緯も含めて、彼らは私たち静岡県民の誇りだった。実際に強かったし、翌年隣にできた磐田も強く、優勝を静岡ダービーで争ったこともある。高校サッカーだけでなくプロクラブまで強いことも、先の静岡サッカー王国伝説を急速に日本中に広めていった理由のひとつだと思う。

Jリーグ発足から30年


あれから30年。
私は清水エスパルスを応援し続けていることに変わりはないが、クラブを取り巻く環境と、日本サッカーの勢力図は大きく変わった。
開幕当時は10クラブでのスタートとなったJリーグも、今ではJ1からJ3までのカテゴリーに分けられ、全国に60チームものプロクラブが存在する。高校サッカーも、80年代には4度の全国優勝を果たしたが、95年の静岡学園の優勝後は長く低迷し、ようやく再び静岡県代表が頂点に立ったのは2019年のこと、約四半世紀ぶりのことになる。その間、静岡勢以外の強豪校が次々と生まれ、中でも、青森山田はその地位を確固たるものとした。
清水も磐田もJ2落ちを経験し、J1の舞台から静岡勢の名前は消えた。まだ記憶に新しい2022年のワールドカップでは、日本代表に入った静岡県出身者は、1名のみとなった。
静岡サッカーが衰退した。誰の目にもそう映るに違いない。確かに、結果だけに注目すれば、その認識は決して間違ったものではない。では、もともとの高いサッカー人気と認知度、普段の生活に溶け込んだ、サッカーを身近に感じるその環境自体も、静岡からは消えてしまったのだろうか。

静岡の現在


ワールドカップで何度もビッグセーブを見せ、日本代表の勝利に貢献した、清水エスパルス所属のGK権田修一は、静岡のサッカー環境について、こう話したことがある。「公園とかで子供がサッカーをしている率も高いし、何よりそのプレーのレベルが高い。一緒になってボールを蹴っている、ママさんたちまで驚くほど上手い(笑)」
数年前までやはり清水に所属しており、北朝鮮代表としてワールドカップに出場経験のある鄭大世は「静岡は、今でも本当に類稀な場所。子供やおばあちゃんまで、僕たちサッカー選手の顔を知ってくれている。新聞でもテレビでも、やはりサッカーの話題が多い。選手にとっても、それはとてもありがたい環境です」と話した。

国立MATCH2023から見えてきたもの


そして今年、7/16(日)、静岡がサッカーに関してやはり特別な土地であることが証明された。
この日、清水エスパルスは、Jリーグ開幕30周年記念として、国立MATCH2023を開催した。ホームゲームを国立競技場で開催するイベントである。前日からSNS上では、オレンジ色のゲームシャツを着たサポーターが、新宿界隈をジャックしている画像が飛び交っていた。
当日、昼過ぎには何人ものオレンジを纏ったサポーターを、新宿駅で見かけた。みな、大挙して静岡県から遠征しに来ているのがわかる。

一曲目から『シャングリラ』で盛り上げる

国立をオレンジに染めろ


この日、スペシャルなイベントも盛りだくさんで、中でも、静岡出身アーティスト、電気グルーヴのミニライブは一気に客席のボルテージを最高潮にまで高めた。
アウェイゴール裏以外、ほとんどをオレンジ色で染め尽くした国立の、この日の入場者数は、47628人!ここは、静岡でもなく、タイトルの掛かった決勝戦でもない。J2リーグの、たった1試合、だ。もちろんこの数字は、歴代J2リーグ最多入場者数を、21年ぶりに更新した!
私は、この光景に、身体の奥底から湧き上がる、喜びにも似た鳥肌を、全身に感じた。同じ静岡をアイデンティティとした「同志」の集い。30年掛けて、このクラブが獲得した、裏切ることのない、本物のサポーターたち。
この光景を作り出せるクラブは、J1を含めてもきっと僅かしかない。いい選手や指導者は、一定レベルのギャランティを積めば、買うことができる。金で買えないかけがえのないものを持つこのクラブが、ずっと今のポジションに居続けるとは、思えない。サポーター力は、クラブ力とイコール。このことは、世界中で証明されている。

47628人!

目の肥えた清水サポーター


試合を見ていても、清水サポーターの観戦眼の鋭さや、サッカーを知り尽くしたリアクションに、しばしば驚かさせることがある。例えば、試合中に他クラブで拍手が起こる時は、得点シーン、好セーブシーン、ボールを奪ったシーン、などわかりやすいシチュエーションが多い。清水のサポーターからは、それらに加えて、何気ないサイドチェンジに割れんばかりの拍手が起こる時がある。すると、それがそのまま決定機に繋がるプレーに直結することが多いのだ。つまり、何気ないと思われたサイドチェンジが、その後につながる重要なプレーであると、サポーターの多くが高い観戦眼を持って認識している。
同じく、テクニカルファウルにも拍手が起こる。イエローカードと引き換えに、相手のカウンターの芽を潰す行為に対して、迷わず拍手を送る。それは、もしそこを通過させてしまえば、その後必ず訪れてしまうピンチを知っているからに他ならない。
最後に、ゴール直前に、座って観戦していたサポーターが立ち上がるのも、清水サポーターは他クラブのサポーターと比較して、ワンテンポ早いと感じる。それは、得点の臭いを、その観戦経験から割り出し、瞬時に喜びを表現するための準備の早さ、と私は分析している。目が、肥えているサポーターが多いことは、確かだ。

J2でもがく清水エスパルス


結局この日、試合結果は2-2のドローゲームだった。一度攻守共に体勢を崩し、下のカテゴリーに落ちたチームは、もう一度立て直すのに予想以上に時間が掛かる。清水も、今はその渦にどっぷりと飲まれてしまっている最中だ。権田の他、乾や、昨年度J1で得点王だったチアゴサンタナまで擁する布陣で、なかなか上位に進出できずにもがいている。
試合後、友人と反省会と称して新宿の居酒屋へ流れたが、そこにも、オレンジ色を纏った同志が、大量に溢れていた。本当にここは、新宿か?静岡ではないのだろうか?一種、痛快なこの景色に、ビールが進んだ。
チーム運営に関して、言いたい文句は山ほどある。でも、それ以上に、私もこのチームを信じている「同志」の1人だ。

アスレティック・ビルバオ

静岡純血計画の提案?


最後に、友人と話しながら、このクラブに対して、一つの提案を話し合った。清水のアスレティック・ビルバオ化だ。
ビルバオは、スペインサッカーの最高峰ラ・リーガのサッカークラブで、バルサ、レアルと共に、下カテゴリーに降格したことのない、たった3クラブのうちのひとつだ。特徴的なクラブ方針として「バスク人」のみの構成、を掲げている。このバスク純血主義は徹底されていて、入団するためには、何よりもこのバスクの血のつながりが重要視される。バスク人の、バスク人による、バスク人のためのクラブだ。
一見差別的な方針とも思えるやり方で、熱狂的なサポーターと共に、長い栄光の歴史を築いてきた。これを、清水でできないだろうか。いや、もし、日本国内でそれを可能とするクラブがあるのだとしたら、清水以外にあり得ない、率直にそう思う。もちろん、反対意見が多く挙がることも容易に想像が付く。外部からの風を常に入れることで、クラブは澱みなく運営されていく。江戸時代の日本がそうであった様に、身内のみの鎖国化されたやり方では、やはり外で産業革命が起こっても、そのことにすら気づけずに、差は開く一方だ。だから清水も、積極的に静岡出身者以外にも、門戸を開放してきた。
でも、その考え方でやってきて、果たして清水は強くなったのか?長谷川健太監督が降板して以来、長く続く低迷の歴史は、10年以上になる。思い切った舵を切るなら、サポーター力が衰えていない今しかない。失礼を承知で言えば、静岡にゆかりのない人が、清水のサポーターになるのは極めて稀だ。だとしたら、静岡純血のクラブを作り、それを皆で支える構図の方が、より全てのベクトルの向きを揃えることができるのではないか。
川口能活、鈴木啓太、長谷部誠、大島僚太など、静岡出身であるのに、他クラブで活躍する(した)選手は、今までも今でも非常に多い。豊かなサッカーを支える土壌から、常に優秀な選手を輩出し、そんな彼らも、清水入りを夢見る。サポーターは一体となってクラブを支え、そこには、静岡のアイデンティティによって強く結びついた誇りが存在する。そんな、クラブを本気で目指してみたらどうだろうか。清水になら、それが出来る。今夜のこの光景を目の当たりにして、私は強く確信した。このクラブ方針にチャレンジできる世界でも稀な存在が、清水エスパルスである、はっきりとそう言い切ることができる。

清水港から富士山を望む

「嫁や家族は変えることはできても、愛するクラブを変えることはできない」ヨーロッパのフットボールジャンキーの言葉だそうだ。その言葉に、友人と共に笑いながら、ビールのお代わりをオーダーした。

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