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自分じゃないって超デメリット。

キネシオロジーに出会う前、やたらとスピリチュアルを勉強していた。
そのときのノートを読み返してみたら、キネシオロジーで学んだことと相通じていた。
身体を通して学んだからこそ、本当に腑に落とせたんだな。
何かにつけてもそうだけれど、精神世界も本当に実行しないことには消化しない。
どういう人生を生きるにしてもまずは「自分が自分らしく」いること。

私が受講生の仲間から再三に渡って"現行犯"で指摘されたことがある。
「いい人」をやっていることだ。
その場を凌ぐために自分の主張を無理して圧し込めて相手を通す。
「またやってるよ~」と何度も言われた。
同調の圧力なんて無いのに、勝手に場の雰囲気で一番滞りがないような流れに乗せたくなっていた。
それが良い流れならまだしも、ネガティブな流れにそれが発揮されたら身を滅ぼしてしまうではないか。

そういえば小学校の頃から既に「いい人」をやってきた気がする。
先生やクラスメイトからは真面目で優等生だよね~と言われるし、係とかを任されることもあった。
かと言って私は勉強も学校も嫌いで、ただ自分を押し込めていたら、静かで便利なヤツになっちまっていただけなのだ。
だからたまにふざけると、○○くんらしくないよね!!と驚かれる。
俺の何を知ってんだい!!と内心では憤りながら。

自分に優しくないから中学校ではいじめられたり何となく仲間から外されたりした時期もあった。
今思えば学校なんて行きたくない、と言っとけば変わっていたのかな、とも思うのだが、「いい人」を親にも発揮してしまったがために余計にしんどくなっていたのだ。
年々蓄積されていく爆弾が腹の底に圧し掛かっていた。
言葉を変えれば怨念かな。
キネシオロジーを学んで、自分自身がとんでもない火薬庫だと気づけた。

今では「いい人」から足を洗って(”再犯”もチラホラしているが…)思うのが、自分じゃない事って超デメリットだ。
変わり者扱いされようが、忖度して自分を無くして何十年と経ってからリハビリ生活なんてのは勿体ない。
もちろん私は学校で学んだことのすべてを否定はしない。
陰が深かっただけ陽もあったから。
肝心なのは本ッ当に自分らしく居られる環境を選ぶこと。
自己主張すること。
自分の意思を逆を行くってのは命まるごと差し出すようなものじゃない?
そんな人が集まった町や国がどんどん暗い方向に行っちゃうわけじゃない?
病んだ人が結構いる社会は、それだけ自分からズレてるからなんだよ。
ズレちゃうような決まりばかりが横たわってんだよね。
じゃあ、こうしなきゃいけない思い込みの熱に浮かされるぐらいなら、肚を括って変人まっしぐらのほうがよっぽど健やかじゃないかな。
なんて伸びしろだらけの現代社会だよ。

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