友情の本質とは?

近所のマクドナルドで腹を満たしこの記事を書いている。
今日も今日とてサラリーマンをした後に。地味に続いている筋トレ、そうとは裏腹に、背中についていく贅肉に目を身開きながら。。。

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時を経るにつれて、友達というのは疎遠になっていく。
誰もがその寂しさを乗り越え、人との適度な距離感を学びながら大人になっていく。
そして、ある時気が付く。疎遠にならない友達もいるな?と。

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その違いは何だろう。
私は、感動の共有が継続してできているか、前回の感動から更新できているかどうか、だと思う。
ここでいう感動は、映画を観て感動という意味だけでなく、文字通り感情が動くということである。
そして友達も、同級生だけではなく年齢に関わらず一緒にいたいと思える人、をひっくるめてここでは友達と言おう。

持論だが、継続した感動の共有、共有の更新が出来ていない人とはそもそも深い付き合いになることができない。

その感動は、会わないと得られないものでもなく、会ったからといってついてくるようなものでもなく。

疎遠になるかならないかは、共有できているかよりも継続や更新してできているか、というところの方が大事で。
チビの頃に遊んであんなに楽しかった友達、学生の頃にバカやった友達、その時は楽しかったはずなのに、時が経つとそのまま疎遠になっていく。
物理的距離が精神的距離になって、感動の共有ができなくなったからだ。
だから、小さい頃の友達よりも、ある程度歳をとってからの友達の方が付き合いが長くなっていく。

気が合うとか、一緒にいると落ち着く、というのは感情が動いていないようにも取ることができるが、そうではない。気の置けない仲になると、もはや喋りもせず何もせずとも友達でいられる。
それはなぜだろう。
それは、感情が動いていないように見えて、落ち込んでいた気持ちが上がったり、安定した気持ちに落ち着くように動いているから。

じゃあその感動はどうやって共有されているのか?
それは簡単で、自分の中での感動の尺度が似通っているかどうか。

疎遠だった友達から急に連絡が来て、久しぶりに会うこともある。
会う前は楽しみだったのに、会ってみると変わってしまった友達にショックし、そのまま疎遠に戻ることもある。
感動の尺度が変わってしまい、共有できなくなってしまったからだ。

感動の尺度は自身の成長やライフステージの変化と共に変わっていく。

逆に、離れていてもずっと友達でいられる人たちは、感動の尺度が良い方向に進化してお互いに感動を与え続けられている関係だ。
そうなると、いかに疎遠にならない友達であっても、自身の成長は遂げていなければならないとも言える。何だかつまらなくなった人、と思われてはいけないのだ。

感動を与え合い続けられる関係、これが友情の本質だ。


・・・これ感動を価値観に書き換えたら何の変哲もない普通の話になるな?

脳内の思考メモを見つけたから、何とか無理矢理書き起こしてみたけど、全く筆が進まなかった。思いついた時に掘り下げ、書き起こすようにしましょう💮

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