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遠藤周作「影に対して」

 影好き人間としては読まざるを得ないだろう。
 本のタイトルになっている「影に対して」は、昨年発見された未発表の小説。他、既に発表されているものと合わせた短編集だ。
 遠藤周作さんの信仰と作品には、育った家庭環境と母親との関係が大きく影響しているそうだが、私は読んだことがなく(すみません)、サブタイトルの”母をめぐる物語“…には無関心のまま読んだ。

 実はタイトルに惹かれたのではなく、きっかけは友達だった。あることを思い巡らしていた私は、教会は肝心なことには答えてくれない、どこか綺麗事だ、と言ったのだった。

決して良いとは言えないこと、
正しさとは真反対かもしれないこと、がある。
でも、それは逃げ道…神様が与えてくださった逃げ道なのかもしれない。
開きなおっていいと言っているのではない。
地上では有限な者として生きている人間、
ぎりぎりのところで、
大きな真っ直ぐな道とは別の抜け道が用意されているのを知るのではないか。
何を思ってもいいとか、それも許されますよ、
と言うつもりは毛頭ない。
しかし、
人間は混ざり合っている存在であり、
そのことゆえに苦しみがあり、
そして、そのことでこそ生きられる。
わからないことにわかった振りをしないで、
わからないことはわからないままに、
ただ黙って、
一緒に生きて待とうと。
教会はそういうところを語ってほしい。

…とまぁ、何言ってんだかわかんないと思いますが笑、こんなことを友達と話していたら、その友達が、ちょうどこの本の中の「影法師」を読んだ直後で、私の言葉と「影法師」が繋がったと言うのです。
え?あら、そうなの~。じゃあ、読んでみるっぺ。

 

 カトリック信者の「僕」が、少年時代から関わりを持つ神父へ書く手紙として語られていく。

 「僕」は信者である母親と二人暮らしだった。烈しい性格のため父と別れた母は、信仰にのめり込んでいくが、そこに現われたのが正しさと清潔感溢れるスペイン人の青年神父だった。母は神父を理想として「僕」を神学校の寄宿舎に入れるほどだった。「僕」にとって神父は強い人で、自分は肉体も心も意気地のない孤独で弱い者だった。神父は「僕」を鍛えようとして「僕」が可愛がっていた犬をも棄てさせた。「僕」は厳しさに耐えられず寄宿舎を去る。期待に応えられず怠惰に過す「僕」は母の死に目にも遭えなかった。母の死後、父と暮らすようになった「僕」は神父に手紙を送り続ける。「僕」をそのままには受け入れない神父を嫌悪しつつも、母が慕っていた彼と繋がることで、母を裏切った自責から逃れるだめだった。
 「僕」は結婚の準備のために神父と再会するが、「僕」はその頃より神父の様子が変わったことに気づく。神父に女性問題が起っていることを知った「僕」に対して、神父は『私を信じなさい』と言う。やがて神父は教会を去り連絡は絶たれる。
 現在に至り、「僕」は偶然レストランで元神父とすれ違うが、彼はかつてのような立派な様相ではなかった。「僕」は彼が食前に、周囲にはわからないくらいの早さで十字を切るのを見る。その後、「僕」は元神父が女性と結婚していたことを知る。何年か経ち、「僕」はまた偶然にデパートの屋上で、女性と子どもを連れた元神父を見かける。その後ろ姿に「僕」は、人生で出会ってきた「影法師」=弱く悲しい眼をした者の姿を見る。「僕」は、元神父はもはや自信と信念に満ちた人間ではなく、昔自らが捨てた「僕」の犬のような弱い者としての眼を持つ人間になったのだと感じる。「僕」は心の中で元神父に言うのだった。『貴方が僕を裏切ったとしても恨む気持ちは少なくなった。むしろ、貴方がかつて信じていたものは、そのためにあったのだとさえ思う。あるいは貴方はそれをもう知っているのではないか。』と。


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