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「向田邦子の恋文」

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 実家に向田邦子全集(選集?)があり、学生時代エッセイが好きで読んでいた。ほとんど忘れてしまったが、ひとつ覚えているのは、「買った喪服を早く着たいと思った」という話。向田邦子はとてもおしゃれで、若い頃は黒い服ばかり着ていたそうだ。その頃、上等の喪服を買ったとき、向田さんは「早く着てみたい」と思ったのだと言う。喪服なので当然誰かが亡くなって初めて着るわけであり、向田さんは、最初に着るのは、長生きして天寿を全うした人の葬儀か、義理で葬儀に行くような人のときになるよう願った、みたいなことが書いてあった。結果どうなったのかは覚えていないのだが、こういうことは確かにあるな、と思ったのだった。人間は真面目なことを考えるときにも、ふと不謹慎な思いが混ざり込んでくる。当時、そこまで私が考えたわけではないが、多分そういう、人間の色んな思い、混ざり合う心があってこそ人は保たれ生きられる、みたいなところを上手く書いている向田さんに魅力を感じたのだと思う。
 ドラマも見ていた。民放ではなくNHK、両親が見ているのを一緒に見ていた。「阿修羅のごとく」。小学生であの内容を味わえていたとは思えないが、それでも退屈せずに毎回真剣に見ていたと思う。
 昨年、映画化もされているが、やはりテレビドラマの方の「あ・うん」を動画配信で見ることがあった。これも毎週欠かさなかったドラマだ。最初は懐かしさだけで見ていたが、そのうち私は引き込まれてしまった。

 昭和初期を舞台として、製薬会社のサラリーマンの水田仙吉(フランキー堺)と親友の実業家門倉修造(杉浦直樹)、門倉に思われる仙吉の妻たみ(吉村実子)、仙吉夫婦の一人娘さと子(岸本加世子)、門倉の愛を得られぬ妻の君子(岸田今日子)を巡るドラマだ。修造は妻以外の女性との関係があるような男性なのだが、親友の仙吉家族を大事に思っていて色々世話を焼く。そこには仙吉の妻たみへの思いがあった。たみはそれをわかっており、たみも修造への秘めた思いを持っている。仙吉とたみは良い夫婦であり、それも真実なのである。一人娘のさと子の目を通して展開するドラマ。仙吉も妻のたみが修造を思っていることを薄々気づいていて、たみもそれを感じている。娘のさと子もよくわかっているのだ。皆が皆の思いに気づきながら、それには触れないでいる。触れたところでどうにもなりはしない。どうにかなってはならない。そういう、なんとも言えない関係の中で、しかし、お互い思いやって生きている。
 仙吉がこう話す場面があった。将棋崩しを例えにして話すのだった。「一枚、引っ張るとザザザザと崩れるんだな…おかしな形はおかしな形なりに均衡があって、それがみんなにとって幸せな形ということもあるんじゃないかな」と。私はここで泣いてしまった。仙吉家族と修造夫婦は、一人一人それぞれ、そしてその関係は歪な形なのかもしれない。でもこの人達は、そういう自分の、自分達の歪な形を知っている。「あなたは本当に誠実なのか」と問われたなら、「いいえ」と答えるだろう。そして、その後は黙っているだろう。黙っていることが、それ以上触れないことが、残された、どうすることもできない誠実なのだ。そんなふうに私は思った。


 写真の左側は向田邦子が亡くなって2年後に出版された本の文庫版である。私はこれを見たとき、向田さんの若い頃の写真に驚いた。まるで女優かモデルのような美しさなのだ。ポーズまでして。確かに向田さんは元々美人だとは思うけれど。それにしても、これは一体誰が撮ったのだろう。素人とは思えない。水着の写真など、どう見てもプロのカメラマンに撮ってもらったとしか見えなかった。そして、カメラ越しに向田さんを見ている目。この時の向田さんの輝きを、どうしてもカメラに収めておきたいという気持ち。向田さんの写真を見ているのに、誰かもう一人、もう一人の誰かを直感したのだった。ここには、愛おしさから来る安堵感と軽やかさがある。少しの恥じらいと茶目っ気、そして、固さ。撮っている人と撮られている人の、その瞬間の空気がまだ残っているかのように伝わってきた。しかし、この本には写真のことも、撮影者のことも書かれておらず、私の中で少しの気がかりになったまま月日は流れた。

 3年前に向田邦子の妹さんが書いた本を読んだ。書かれたのは2002年で、向田さんが飛行機事故で亡くなってから20年以上経って書かれたものだ。向田さんが亡くなった1981年、妹さんは遺品の中から、向田さんが恋人に送った手紙と恋人の日記を見つけているが、封筒に入れられたそれらを開けて見たのは2001年だったと言う。中身の見当はついていたものの、実際見るまでにそれだけの時間を要したと妹さんは書いている。そしてここで、若い頃の美しい写真は、やはり向田さんの恋人が撮っていたことが確かなものとなったのだった。

 向田さんは1929年(昭和4年)生まれ。ここに載せられている恋人への手紙と、その恋人の日記は1963年(昭和38年)から翌年のものである。手紙は11月27日の速達から始まっている。大学ノートに書かれた日記は10月7日から毎日記されていたそうだ。この本では、その中の11月下旬から亡くなる前日までが抜粋されて載っている。N氏は自死で亡くなっている。
 向田さんは20代前半でN氏と出会っている。13歳年上だった。そして妻子ある人だった。N氏は妻子とは別の暮らしだったという。それがいつ頃からだったのか、向田さんと出会ったとき既にそうだったのかはわからない。わからないが、どこかの時点で結婚生活は破綻していたと思われる。
 N氏は記録映画のカメラマンで、向田さんの最初の就職先で出会ったようである。妹さんの記憶によると、N氏は向田さんの家の玄関先まで来たり、向田さんと妹たちがスキーに向かう夜行バス乗り場に現われたことがあるそうだ。著者の和子さんは、向田さんと9歳違いの妹で、その間にもう一人妹さんがいる。もう一人の妹さんはその頃からN氏の存在に気づいていたという。

 向田さんが24歳頃、向田さんの父親に妻以外の女性の影が見え始める。向田家は随分重苦しい家庭となったようだが、向田さんは母親の話し相手となり、兄妹の世話を焼き、経済的にも支えた。この頃向田さんはN氏と出会っていたと思われるが、たとえN氏が妻子と実際上別れていたとしても、自分の母親を苦しめている父親と女性の存在とN氏と自分の存在を重ねて思わない日はなかったと思う。
 そういうこともあってか、一度N氏と距離を置く時期があったようだ。しかし、N氏はアルコールが増え、生活が荒れていった。N氏の母親が向田さんを訪ねてN氏のことを頼んだのだという。
 N氏は亡くなる2年前、脳卒中で倒れ足が不自由になっている。向田さんとN氏とのおそらく10年以上にわたる時間。どの時点でどんなことがあったのか、時期は定かでないが、N氏は母親の住む家の離れに住んでおり、向田さんは足繁くそこに通っていたと思われる。残っていた手紙と日記よりもっと以前から日記は書かれ、そして、向田さんはもっと何通も何十通も手紙を書いていたことだろう。電話でも頻繁に話していたことが伺えるが、この手紙だけでも、2週間のうちに5通書いている。1通は速達である。当時向田さんはフリーのシナリオライターになった頃で多忙を極めていた。この5通の頃はホテル暮らしをしながら原稿書きをしている。その合間の手紙。

 手紙の内容は可愛らしい。ケーキを5つ食べてお腹を壊しているとか、年賀状はやめる、メンドクサイヤは私のキャッチフレーズです、なんて書いている。原稿書きの様子。そして、手袋を忘れないように、みかんをたくさん食べるように、そんなことも書かれている。心打たれるのは「電報」である。「コンヤユケヌ ク」。至急電報で送られている。メールも携帯もない時代。電話さえかけらぬ時の手段だったのだろう。しかも、この日向田さんはN氏のところに行っているのだ。予定が急に変わって行けなくなったけれど、予想以上に要件が早く済んだのだろう。その日のN氏の日記には「思いがけず邦子 9時近くに寄る。明日の支度をして行ってくれる。連日の徹夜続きのせいか、やつれがひどい。身体を大切にしてほしい。」と書かれている。徹夜続きの中、行けないと連絡を入れているのだから、早めに仕事が終わったなら休息してもよかっただろうに、向田さんは、わずかの時間でもN氏のところに行かねばならなかったのだ。行きたかったのだ。
 この本に載っているN氏の日記は27日分であるが、そのうちの17日間向田さんはN氏を訪ねている。向田さんが買ってきたもの、調理したものを一緒に食べ、よく話している。疲れた向田さんが仮眠を取る様子も書かれている。 
 日記はシンプルである。お天気、食べたもの、聞いたラジオ、向田さんとのやり取り、体調、買った物の値段が書かれている。内面的な記述はないが、この時期寒くてあまり眠れなかったなど、眠りについて書かれていることが多い気がする。N氏は足が不自由とは言うものの、外出もしていて介護が必要ということではなかったのだと思う。しかし、いつの頃からか仕事はしていない。向田さんの作った料理が美味いと書いている日もあった。

 N氏が自死で亡くなる前3日間の日記。3日前と2日前に向田さんは訪ねている。2日前は一緒に?病院に行っている。「将来の方針を話し合う。足の調子も頭もよくない。」そして、買った物の値段に加えて「邦子より¥10000」との記述。他の日にはないので、お金を直接渡されることはそうなかったのかもしれないが、電気毛布の差し入れや、日々の食べ物は向田さんからのものであり、仕事をしていないN氏を経済的にも向田さんが支えている様子が見える。
 そして、死の前日とされる日の日記。特に変わった様子は伺えない。向田さんのラジオを褒め、買物に行って「古語辞典」を購入している。雪の日だった。この日二人は会っていない。

 妹さんは、この頃、ある深夜に、向田さんが整理箪笥の前にへたり込み、放心状態で半分ほど開いている引き出しに腕を突っ込んでいる姿を見たと書いている。見てはいけないものを見たと妹さんは言う。その憔悴しきった姿に衝撃を受けたと。そして、妹さんは、N氏の死を知った夜に「間違いない」と思うのだった。

 私はエッセイとこの本は読んだが、その他いくつかのテレビドラマを見ただけである。想像の域を出ないが、向田さんは時代のせいもあったろう、父親を立て、そうして家庭の秩序を崩さないことで家族を支えようとした。エッセイの中ではそそっかしい粗雑な面も書いてあるが、服や帽子を手作りし、料理も上手だった向田さんは几帳面でもあり、細かい配慮を得意としていたように感じる。向田さんは人の心の動き、口には出さない、言葉にはならない心を敏感に感じる人だったと思う。家族にも仕事仲間にも友人にも、様々な気配りをして生きていたのかなと思う。そのような向田さんが、N氏の前では自由になって、時には疲れを見せ、おどけて見せ、たくさんのことを話したのだと思う。と同時に、そんな向田さんだからこそN氏の苦しみもわかっていたのではないだろうか。家庭問題、仕事、病気、将来のこと、向田さんとのこと。どれをとってもN氏が心晴々とする日は来ないであろうことを。向田さんは、無理を承知で賭けていたのではないかと思う。無理は承知していた、でも、できるかもしれない。向田さんはN氏のことが本当に好きだったと思う。そして、私はこの日々の向田さんは幸せだったと思うのだ。こんなにも一緒にいたい人の傍で必要を満たしてあげることができたのだから。N氏も向田さんとの時間は、苦しみの中での淡い望みであったと思う。しかし、向田さんの幸せも、N氏の望みも、N氏の苦しみ全てを救うことはなかった。 

 妹さんにはこの夜の姿を見られている向田さんだが、仕事を休むわけでもなく家族の前では何事もなく過している。その他ではどうであったか。妹さんの意志によって、この本が書かれる前段階でNHKが没後20年のドキュメンタリー番組を作っていて(私は知らなかったが)、その時にN氏の病気や自死のことがわかったのだと言う。日記でも二人は東京の街で食事をするなどしていて、この時点で絶対に見られてはいけないということでもなかったのだろう。仕事仲間や友人にはある程度知られていたから、取材でN氏のことがわかったとも思える。しかし、向田さんからN氏が自死したこと、失った悲しみを直接聞いたという人はいないようである。


 自分自身を最大限打ちのめすような出来事。その気持ちを、その心を、向田さんは誰にも、誰とも話さなかったのだろうか。本当にそんなことがあるのだろうかと私は思った。話を聞いた人はいたかもしれない。それはわからない。ただ、唯一思うのは、N氏の母親とのやり取りである。N氏の死の知らせもN氏の母親からもたらされたのではないか。N氏の死後も家に行って母親とは会ったと思う。そして、N氏の日記とN氏に宛てた向田さんの手紙を渡したのもこの母親である。
 息子の落ちぶれていく姿を見る母親の気持ちはいかばかりかと思う。息子が愛する、そして息子を愛している向田さんに息子を託すことが残された方法だったのだ。N氏の母親も向田さんに賭けるしかなかった。無理を承知で。
 向田さんとN氏の母親がどんなやり取りを交わしたかはわからないが、そこには、向田さんしか、母親にしかわからない気持ちがあり、この二人だけには、それがわかっていた。私はそう思うのだった。


※この本の最後に、爆笑問題の太田光さんが文章を寄せているのですが、これが卓越です。これ以上の感想なんて言えない…と思ってしまうほどでしたが、私自身は以前から気になっていた、邦子さんと恋人のお母さんとの関係に思いを馳せて書きました。



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