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立庭和奈のこの言葉に響きあり 11

   玉磨かざれば光なし   (まばゆい光を放ち、美しい宝石となりうるダイヤモンドのような原石といえども、形成や研磨の工程を経ることがなければ、人々から重宝される装飾品とはなり得ないことから、如何に才能や素質がある人物でも、一定の修行や訓練等の過程を経験しなければ、才能を発揮したり、社会で活躍したりすることはないということのたとえ。)   最近、企業で自分自身の成長の機会を見いだせず悩む若者が多いということです。どういう事かというと、主に働き方改革やブラック企業への対策としてとられる方針により、企業の側が採用する新人に、まるで腫れ物にさわるが如く接するため、新入社員らがお子様扱いされてしまう、という事らしいのです。その結果、社会に出たばかりの若者が、自らが職能を伸ばしたり、社会人として自信を持つだけの経験を持つ機会が失われ、仕事に対するやり甲斐や、社会人としての行く末に疑問を持つという事になるというのです。

   これは一見すると、働き方改革やブラック企業対策への、行き過ぎた対応の揺り戻しと見ることが出来るかもしれません。しかし、それだけでは事の本質を見誤ってしまいます。働きすぎなら労働時間を減らせばよい、労働環境が過酷であれば、その逆の環境を整えればよい、ということだけであれば、ルールや環境の整備だけ行えば、あとは全て上手くということになってしまいます。その場合、そこで働く「人」そのものを見るという視点が、全く顧みられない事になります。

   これらの事を、働き方改革や、ブラック企業対策という言葉を借りずに言い表すとすれば、それはすなわち「人事」の崩壊もしくは機能不全ということに行き着きます。始まりがそうであるのであれば、対策もそれに相応しい方法で成さなければならないのですが、ルールや数値の変更のみで対処しようとすれば、狙いとする結果は得られるはずはありません。

   それで現状どうなるかと言えば、企業は自社で人材を育成することが出来なくなります。若い人は社会に出て、あるひとつの会社に留まっても、成長の実感や、期待したような経験もさせてもらえないことになり、不安や悩みを抱えることになります。識者の中にはそれらの人に、会社の中で成長する事は望まずとも、自分自身を成長させる道具として、(転職しながらでも)会社を利用するという考えで、アドバイスを行うことがあるのが現状です。こうなると、以前からある、会社とそこで働く個人との関係が、相対的なものに感じられ、主客転倒したようにも思われますね。

   

いつの世も 人の出会いは ゆくりなく 見えぬ糸にて 繫がれしか