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「歴史的名演」は絶対的?

 クラシック音楽愛好家の某コミュニティサイトで、「この演奏が最高!」「歴史的名演!」などといった書き込みがあると、それに対して「こっちの方がいい」「ここがダメ!」といったネガティブな反応がありますね。
 また(よせばいいのに)、「この曲の最高の演奏はどれ?」と聞いたりすると、それこそ多数のお勧めがコメントされ収拾がつかなくなることもしばしば。場合によってはそれで一悶着が発生したりします。まあ、これはクラシックのコミュニティサイトに限った話ではありませんが・・

「ルール」に従おう!

 この問題に対し、「このサイトは愛好家の集いの場であって、価値観や好みは人それぞれ、お互いを尊重し、書き込みは個人的な「好き」「嫌い」の表現として、他者(の書き込み)を否定するようなことはやめましょう」というルールが設定されていますが、それでも繰り返し同じような問題が発生します。  
 私もこのルールには基本的に賛成で、というのも「歴史的名演」とか「永久保存版」とかいったうたい文句に惹かれて聴いた演奏に首をかしげることも度々あり、人の言うことを真に受けず今の自分がどのように感じるのかを大事にしよう思って、聴いたものの簡単な印象を「いぬとうさぎのオーケストラ」として note にまとめています。

 そういうわけで、私も「人それぞれ」ということばを使っていますが、それはあくまで他者の感じ方や価値観、経験に基づく判断に敬意を表しているわけで、例えば同じ曲を聴いても、その人が何に主眼を置いて聞いているのか、私は金管楽器奏者でしたので、どうしても金管セクションが気になるように、人それぞれにポイントが違っているんだろうなと思うのです。作曲家、土地、時代、演奏家、いろいろな聴き方あって当然ですし、それは理屈で説得できるようなものでも、説得して強要するものでもありません。

「人それぞれ」で強制終了?

 ところが最近、「人それぞれ」ということばが、お互いの会話を強制終了させてしまうのでキライ、という話をいくつか見て思うのに、確かにそりゃそうだなと。相手のことをもっと知ろうと思って話しかけていた矢先に相手から「人それぞれですから」って言われると、もうそれ以上先がなくなってしまいます。
 相手がもっと自分の考えを話したい、理解してほしい、あなたのことを理解したい、と思っているときに「人それぞれですから」と答えてしまうのは、相手のことを尊重しているのではなくて、もう話したくありません、話をしても無駄でしょう、あなたのことには興味はありません、と暗に言っているに等しいのかもしれませんね。

「好き」なものだけでいいんだよね?

 一方、自分の考えに従って、「好き」と思うものを選べばいいんですよね?って人もおられますが、これはそのとおりなんだけど、でも、所詮、自分が知っていること、知っている範囲なんてたかが知れているもの。自分のまだ知らない世界にも、もっと自分の好きなものがあるかもしれない、きっとあるはずでしょうし、今の「好き」「嫌い」は、未来の自分には違って見えるかも、色々な経験を積んで見方も変わるかもしれないわけで、そんな意味で「好き」なもの、「好き」なことだけをやっているのがいいとも言えないわけです。「いぬとうさぎのオーケストラ」を始めたきっかけは、まさにそのように常々思っていたからであり、改めてその曲を聴き直したときに、そういえばあの時こんな印象だったよな、と思い返すことも度々あって、それなりに重宝しています。

 未来の自分は変わっているかも?

 「いぬとうさぎのオーケストラ」で、とにかくシューベルト以降の交響曲を全部聴く、と目標設定したのもまさにそれが狙いで、知らない世界を開拓し、未来の自分がどう感じるのかに興味があって始めたことです。
 今までに150人ほどの作曲家、1000曲弱の交響曲、数千の演奏を聴いてきましたが、その間にも知らない作曲家リストはまだまだ増え続けている状態。時間がいくらあっても足りませんが、それでも今まで聴いたことのない作曲家、演奏家の演奏を聴いていると、確かに自分の世界は確実に広がって、聴き方、感じ方も変わってきているのが分かります。自分の変化や蓄積を感じることができるって面白いですよ。

 とはいえ、なぜシューベルト以降なのか、交響曲だけなのか、日本を含めアジア圏は含まれないのか、てなことは、それこそ「好き」「嫌い」に依存しちゃってるんですけどね。まあ、手が回らないというのが本音ではありますが。


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