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六月の冬服整備員と白い手袋 ✈ある日のブルーインパルス

ノンフィクションです。

子供の頃の航空祭のお話です。
(こうくうさい、空自基地の基地祭をこう呼びます。ブルーインパルスの飛行があったりします。)
5歳の時出会った、6月の航空祭で一人だけ冬制服を着た自衛官。その人を私は大人になった今も捜している、というお話です。

この一篇で読み切りとして書きましたが、前回の「鉛筆の◯とフォン・ブラウン博士の訃報」の前日譚でもあります。
そして今回のお話は、T-2ブルーインパルス創成期の知られざる秘話でもあります。もう引退した飛行機の時代のお話ではありますが、今も昔も変わらないものがそこにはあるかもしれません。

このnoteは私の5歳の記憶を証言と出来るよう詳細な情報を書き記しておく側面もありましたので、必要に応じてそういったやや詳細過ぎる部分は読み飛ばせるよう地色を変えてみました。
お話として読まれる方は飛ばし読みしてストーリーが分かる工夫です。

飛ばし読み推奨。
(マニア諸氏は各々要るところを中心にピックアップして見ておくれよ✈)

1982年6月のお話です。


episode0. 六月の冬服整備員と白い手袋

ハートを見たんです。垂直より少しだけ斜めのビッグハート。それから白い手袋を。82年の6月に。


早朝には雨がぱらついたようでした。母が気付かない程度の雨音だったようで、今日のお天気を気にして観た朝のテレビの天気予報で気付いた程です。それから私も家の外に出て確認して…雨は止んでいて、土の地面が濡れていたのを覚えています。

ですが、天気は昼にかけて曇りから段々と好転していました。丁度お昼頃に飛行場エリアに着いた頃には広々とした空に薄日が差して、そこに至る長く緩い坂道を一緒に歩いた祖母は「こりゃあ傘でなくて日傘が要るわ」と言いました。

航空祭です。基地の外で見たり基地内の途中まで来たことはありましたが、飛行場まで来るのは私はその年が初めてでした。
そして事前に言われていた通りに本部テントへ向かい、その場所を勧めてくれた近所のおじさん達と落ち合いました。大きな、赤くて丸いアドバルーンが目印です。
ヒコーキ好きのおじさんは午前中のうちに自分の部署の仕事を特急で済ませ、本来なら隊の食堂に行く筈の時間を使って昼食もとらずにここに来ていました。

午後イチのブルーインパルスを見るのです。

昔デパートの屋上にあったあれ

「…ああ、この子にはちゃんと解説付で見せてやりてえな。適当は駄目なんだ!俺が解説出来りゃいいんだが、残念ながら今日のは俺も初めてでな。おい誰か、松島の奴でいねえか!?」
「解説か。おう適任がおるぞ。ホラ」「確かに適任だな。」「これはT-2好きだからって松島に希望出して見事通った奴だ。行け。」
「…えっ…えっ俺ー!?」
「子供はVIPだぞ。VIP待遇で。な!頼む!」「俺かぁ……確かにT-2には詳しいですけど……しょうがねえな〜もう!」
T-2 ティーツー。初の国内開発ジェット高等練習機。ブルーインパルス2代目使用機。)

6月です。周りの大人たちは夏制服なのに、彼一人だけ紺色の冬制服、小脇に制帽を抱えていました。

・夏制服は半袖シャツに淡灰色のスラックス
・冬制服は紺の長袖上下スラックス
  制帽は紺の鍔付きお巡りさん風
(私はまだ「衣替え」の存在を知らず、特に違和感がない)

冬制服ツチヤ登場
それは1982年6月、福岡県芦屋(あしや)基地の航空祭でのことでした。(芦屋の航空祭は年によって時期が違います。この年は6月開催。)
後で聞いた話なのですが、彼はT-2ブルーインパルス(第21飛行隊)にT-2通常機と一緒に付いてきてしまった隣の隊(第22飛行隊)の整備員でした。
ツチヤさん(土屋さん)という人です。

東北、宮城県松島基地から九州福岡、芦屋基地にこの日だけ来ていたのです。

行きはブルー機の後ろに乗せてもらったそうだ

実はこの年、ブルーインパルスは新機種T-2での松島隊による新生2代目ブルーとなり、全国の航空祭を回り始めたお披露目デビューの年でした。(それまではF-86Fを使用する浜松の部隊が務めていた。初代ブルー。)
私は5歳で、この年初めて飛行場エリアまで連れていってもらったこちらも「初デビュー」の子供でした。

昼飯抜きのおいちゃんはうちのラップおにぎりを
「ありがてえ!」と召し上がった
お茶は本部にある

最初は飛行展示が「地上滑走のみでフライトなしの予定」として知らされていたようです。それで芦屋のおじさんはこの子にせめて解説を、とそこにたまたまいた松島の人を上手くとりなして、詳しそうなツチヤさんを付けてくれたのでした。
(この時は私は「みんなじえたいの人」という認識です。)

「………では、私めが。何歳?」

NOTAM(ノータム)
ところが松島の人達(21飛行隊=ブルー隊員)のやりとりを聞いて大人たちがざわつき始めました。ツチヤさんもです。(彼は22飛行隊の人なので。)

「おう、やるぞ。そっちよろしく頼む」
「ハイ。わかりました。」

テントがざわつく

「?え?」「やるって…」「?…やるのか!」「何!飛ぶとこ見れるの!?」「いやNOTAM(ノータム)はよ?」「おい!今そこ管制塔の奴に聞いてきた!NOTAM、出てる!!」「高度は!?何フィートで出てる!?」「えっアレッ?離陸だけはやるのかな?」「おお高度も聞いてくる!」
「行かんでいいです。やりますよ。」
「おっ。あんたブルーインパルスか。すまん格好が俺らと同じだから」
「はい。今日は地上係なので。」

・この地上係の人も周りの人も皆半袖シャツに淡灰色スラックスの夏制服。
・ちなみにこの件の芦屋のおじさんはそれに作業装用のキャップを被っている。職は救難の整備だ。(←飛行場日除け必須)

「やるの!?ヤッタァやるって!」
「飛ぶん?」
NOTAM…notice to airmen「航空従事者へのお知らせ」。曲技飛行の際には周囲の航空機へのお知らせとして必ず使用空域に出ているもの。)

「『フクオカ』からは飛んで良いと。先程こちらの者が電話して許可降りてるようですので。」
…飛ぶんや。わぁヤッタ。ちゃんと見よ。

NOTAM界ではここが首領(ドン)
東京ACCなどその下僕(しもべ)、空自や米軍すら
首領にお伺いを立てなければショーは始まらない

(画像は国土交通省ATMC公式紹介ページより)

フクオカ
説明しよう。この『フクオカ』は「福岡FIR」転じて「航空交通管理センター(ATMC)」を指している。
実は世界から見た日本国全体の飛行情報区の名称が
福岡 FIR(flight information region)」
なのである。現在も福岡市東区にある航空交通管理センターが福岡FIR(=日本全体)、防衛省や米軍との空域調整を担当している。
NOTAMを出すのはここなのだ!

…つまりこの「『フクオカ』からは飛んで良いと。」の言わんとするところの意味はこう。
「空自の担当部署(飛行情報隊が現在は府中基地に所在)にうちの飛行隊の者が電話したので調整済で航空交通管理センターからNOTAMつまり航空従事者へのお知らせが出ており空にいる者皆わかる状態でこの空域は空いていますので我々飛んでOK」
を短く洒落て言ったもの。

…そしてこの『フクオカ』には、
「空自パイロットもまた航空従事者の一員であり、そこをも統括する日本国の飛行情報区に福岡の名が付いていること、それを世界に誇れることを嬉しく思う」
というこの人の気持ちも表現されている。

この時代の空自パイロットは外国に飛ぶことがまず無い。「福岡FIR」これは座学(講義授業)の教科書に載っていたとしても他の人なら覚えていない。
だがこの人は政府専用機の話もしていた。(政府専用機導入前の時代にも関わらずだ…傍らの元後輩らしき芦屋のパイロット職の人に)「これからは関係なくもないかもしれん」と。
『フクオカ』は非常にこの人ならではの言い方である。

続けて、彼は空を見上げながらこう言った。「いつもは遠いが今日は近いな」
いつもは遠く東北の地松島でのフライトで、このNOTAMを見る時が一瞬郷里を想い心強さを感じる瞬間であったようだ。

福岡県出身。この日地上担当で本部テントにいたT-2ブルーパイロット。
この日家族が来ていた人だ。家族は別で私達の右斜め後方と前方人波の方にいる。

パイロットは中の人達にとっても憧れの存在

とそこへ後ろの隊舎からパイロット達が続々登場。小さくどよめきが起こりました。

…わぁヘルメット持っとる。カッコイイ。バイクの人みたい。…持ってない人も…あ、あの人もパイロットかぁ。

ヘルメットと耐Gスーツ
5番下川さんである。
ツチヤさん「アレッ下川さんメットは」
下川さん「機に入れてそっちに一緒に移動させてもらった。忘れたわけじゃないよ」
「Gスーツも?」「うんメットと一緒にそっち。折角のおNEWの展示服見せたいじゃない?」「ま確かにそっすね。でも戻りは?」
…終わって戻ってくる時には機のところで耐Gスーツを脱いで一式抱えて帰ってきた。(もう1名とこの方法で今日は試し、と言っていた。NASAやJAXAな雰囲気が出る登場方法だ。)

一方で、この日の1番岡本さんは耐Gスーツ着けて行って(ヘルメットは手持ち)、戻りは一式そのままパラシュートも着けて帰ってきて(ヘルメットは脱いで手持ち)隊舎で点検に出すところまでがフライトです、というルーティン。ヘルメットはカーキ色。
(スクランブル想定のファイターパイロットな雰囲気を醸し出している。歴戦の猛者感。)

→でツチヤさんらに
どっちがカッコイイ?」と聞かれたので「両方。どっちも。」と答えた。
(私はどっちも見たい派です)

現在のブルーインパルスは機までの行き帰りに肩掛けの専用バッグを使っていたり(ヘルメットは多分入らないがギリ入れる人も)、ショーの始まりは展示服で「ウォークダウン」をスタートにしていたりと、時代を経て洗練されている。

でもスクランブルの時は走るから…
あなたならどっち。
(『空飛ぶ広報室』表紙より)

「!展示服!持って来てたんすね!NOTAM!出たんですね!」ツチヤさんが言うとパイロットが答えます。
「ツチヤくんだって冬服持って来てるじゃないよ」「何制帽まであんの」「いや俺のことはいいっすよ…」
「俺らもいつでも飛べるようにして来てるよ」「まあ今日ちょっと高度制限あるよ」「一応な。ちょっとだけな」
「ガンバってください!」「俺らは訓練通りだよ」「ツチヤくんもガンバって!」「何をすかぁ…何を俺はがんばるんすかぁ…!」「解説?ツチヤ解説すんの?アラッここの子?何歳?ツチヤの子じゃないよね」「違いますよ!!」

「解説ガンバって!」「じゃね!」
「ガンバ…じゃねえや行ってらっしゃい!お気をつけて!」

これは現在の青い展示服

オレンジじゃない
「あれが展示服だよ。え?オレンジじゃない?おお、よく知ってるね前のオレンジだったよね!変わったんだよねー新しいのになったんだ!今度からあの青いのなんだ。わかる?濃い。紺色?
え、お揃い?俺?あホントだ俺今日冬服だったわ。そうかー、色だけだけど確かにお揃いだわーなんか嬉しいー。そう、これ紺色!あれ紺青色の新しい展示服!

カッコイイの見せたいんだけど…Gスーツであんまり見えないかな?上から着て…装着わかんないか、あれ、カーキ…濃い緑の……」

耐Gスーツもこの日はオレンジじゃない
この日は耐Gスーツはまだ普段使いのものだったのではないか。
T-2ブルーを調べていくと、紺青色の展示服にオレンジ色の耐Gスーツを着た写真の画像を見つけることが出来る。
この日より後には展示用のオレンジ色耐Gスーツが採用されているのだ。

実はこの日、5歳児の「オレンジじゃない」を受けて、(展示前と後に)やはり要るな!欲しいな!と(展示用耐Gを)作る相談をしていた記憶もある。
「…待てよ、生地サンプルの中に…多分あったぞオレンジ。」「岡本隊長、まだ回答してないですね?」「あったなオレンジな。俺は見たな。回答はまだだ。」
「松島にメーカーの生地サンプルのファイルがある!帰ったら皆見て。相談しよう!」

…本当に初めての試験的な展示だったのだ。まだ世に知られていない2代目松島T-2 ブルーにとって、前任の初代浜松ハチロクブルーのイメージは上手く引き継いで活かしたいものでもあった。

注・初代ハチロクブルーは
初代『ブルーインパルス』だが
あまり青くはない
飛行服は専用ではなくその頃は皆オレンジ色
オレンジカッコイイ感覚の源泉はこちら
円谷プロ公式『円谷ステーション』
科学特捜隊の項
より)

幼い私は前年飛行場まで行けなかった
ハチロクブルーのリーフレットを貰って
このイメージから膨らませていたのだ

この日はT-2 ←NEW!
色の展示服 ←NEW!
耐Gスーツはカーキ色
メットは大半の人が(Gスーツに合わせ)カーキ色
展示用の系メットも見せてくれた←NEW!

超音速G
「そうだGっていうのがかかるんだよ。パイロットは大変なんだよ〜あの飛行機すごく速いから!音より速いんだ!だからあの濃い緑のが要るんだ、耐Gスーツね。

ヘルメットもね、さっき持ってるの見たね!あと酸素出るとこ、マスクあったの見た?飛ぶ時口のとこ、こう付けてるの。やらないとね、気失う時あるらしいよ。
あ、もちろん飛んでるあの人たちは大丈夫なの鍛えてるから!パイロット大変だよね、よくやるよね俺整備だからそんな鍛えてないけどね〜。

うんホラ見て!そこの人パイロットなの。今日はこっち地上の仕事だけど普段あれ乗ってるの。鍛えてるねカッコイイね〜!」
「ブルーエンジェルスはあれ無しでやる。あと俺そんな鍛えないからホラさっきの人も分からなかっただろ。」「って言って鍛えてるんだよ〜」

…わぁ紺色の兄ちゃんこれは詳しい人や…しかもだいぶ好きな人やん。あれ飛ぶの嬉しそう…。良かった。ここで一緒に見よう。

いよいよだ!
あっ…「なんか音しよる」「エンジンスタートだ!これ行くね。……行くぞ行くぞ〜!
…あっちか!よっしゃー上がれ!!」
…上がった…!

ブルー使用機、当時のT-2/現T-4の比較
T-2は細長く大柄、翼は短くロケットを思わせる

Nobさんは細長さを失わない程度に丸っこく描く

『航空縮尺イラストグラフィティ エトセトラ編』下田信夫著(大日本絵画)より

炎(ほのお)
T-2ブルーならではの見せ場、離陸のトーチも説明してもらいました。
「見える?ここからじゃちょっと遠いけど…是非見て!あのロウソクの火みたいの。後ろにちょっと出たでしょう?『トーチ』って言うんだ。この飛行機だけなんだ!まあだけじゃないかもだけど、珍しいんだよ。誕生日にケーキふーっしたことある?」

言い得て妙、細長い機体がロウソクのようで後ろにシュッとした火が…機体が人波を出て上がったところで少しだけ見えました。
離陸方向が遠く本当に一瞬でしたけれど。

トーチこれで覚えた

そこへさっきの鍛えている『フクオカ』の人が言います。
「ロウソクはないな。もうちょっとこう…ないかな。ジェットだぞ!アドーア。ロールスロイス。」…おっ。この人もあの飛行機好きなんや!パイロットも好きなんやね。
(この時私はこの「パイロット」は分かるが実はツチヤさんの職「せいび」があまりよく分かっていない。「整備」が漢字だからだ。)

「ロウソクだめすかーもっとカッコイイ方がいいすかね?いや子供に教えるの難しいなー!…うーんオリンピックかな…聖火リレー知ってる?火をこう持って走るの…いや聖火知らないって!えっ五輪は知ってるの?何歳?5歳。5歳かー!トーチってトーチング?」
「トーチングの略。F-15なんかだとオグメンタ。あれはでもトーチと違うか。」
「オグメンタのがわかんねっすよ!」

結局ここでは仮に「炎(ほのお)」ということになりました。

んもう全部アフターバーナーで良かです 

wikipedia「アフターバーナー」の項より拡大
これはF-16C、米空軍PACAF at小松2019
Thank you!

聞けばこの紺色の冬服の人は隣の隊の整備で、夏服の地上係『フクオカ』の人はあれのパイロットだと言います。
「俺は応援団でそっちの人は兄貴分というか、俺勝手に弟分みたいになっててみんな良くしてくれる」と教えてくれました。

…それ、みんなあの飛行機好き同士やけんね。

非公式
実はこの日の芦屋基地でのブルーインパルスの展示飛行は非公式なもので、今思えば短縮課目で一部を披露したのみ、展示飛行開始時の会場アナウンスで写真撮影も「離陸まで」と禁止制限されました。
ですので、公式にはこの後7月25日(日)に行われた松島基地航空祭が展示飛行デビューとなっています。

wikipedia「芦屋基地」の項より
1981年撮影の旧滑走路だ!

画面右端、緑がくの字に見えるその頭部分
大きな松林の中に当時私は住んでいた

海側外柵は遊歩道などがまだ無く
広大な砂漠(砂浜)の遥か彼方の未開の地
高低差や潮の干満もある
BGM「♪ガンダーラ」

あしやからの飛行 (注・資料です飛ばせ)
1982年(昭和57年)6月13日(日)芦屋
昼〜午後の天候は晴れ。雲はあったとしても薄く一部で、風もなかった印象。
芦屋は管制塔から滑走路に対面して終日逆光。当日展示、ブルーは左から右へ離陸した。海側へ上がっている。そして海側から着陸した記憶。上がり30→12方向、降りは12→30。なるべく海上と基地上空を使った展示のように思う。
(前日予行は無し、前日はブルーは上がっていない。見た覚え(音も)がないし、おじさんも当日展示直前にブルーパイロットに確認していました。)

・この日のT-2ブルーインパルス飛行展示内容。カラースモークを使用。尾翼にポジションナンバーは無し。
覚えているのは…離陸、ハイスピードローパス、2機✕2機の井桁交差、ややスラントのビッグハート、ローリングコンバットピッチ、着陸。(空中開花は上向き下向き共に実施せず。)
恐らく(3)、4番機は地上滑走のみ。
上がったのは他4機、短縮課目での飛行展示です。
・地上滑走がこちらからは見えなかったものの、戻ってきた横地さんにパラシュート装着についてツチヤさんが質問し「地上滑走だからって着けないわけにいかんだろう」と回答。持っているメットはカーキ色。
・高嶋さんもローリングコンバットピッチからの着陸を数えて4機なのでそこで初めて気付いていた。我々無線なしで見ていた為。

・搭乗者は…岡本さん、田口さん、(森橋さん)、横地さん、下川さん、(田中さん)。
(括弧)の人は断言出来ないですがすみません。ですが当時チームメンバー8名ならこれで合ってる。
・塚原さんは後方の隊舎屋上で無線担当。
・高嶋さんは本部テントでアナウンス担当。
実際にナレーションしたのは主に芦屋の隊員…この人は高嶋さんの元後輩パイロットか。この日は現地芦屋の隊員に原稿を渡し、横で松島ブルー隊員がサポートする形になっていました。

X(旧Twitter)@matshimabase 航空自衛隊
松島基地さん公式の投稿
 より

吊るしものクラブ (注・資料です飛ばせ)
・翼端に模擬サイドワインダー、付いている機体あり。自分が遠目で見た記憶よりも、展示後のツチヤさんと岡本さんの会話の中での判断ですが。その事に言及し説明もしてくれています。後述のノータンクの機は模擬サイドワインダー付き。
・翼下にドロップタンク(増槽)あり。恐らくうち1機分足りずそれ以外は付いている。(3番がノータンクと推定。)
全てBlue Impulseの文字はまだ無く、赤オレンジ色の無地。これは色が降りの時目立つので目に入りました。飛んで、降りた4機は全てタンクが付いていました。
文字についてはこれも展示後のツチヤさんと岡本さんの会話の中に出てきています。
(→会話詳細は後述「着陸…えっ吊るしものクラブなの?」のあたりを参照のこと)

・機体、エンジンに個体差があること、個性に即したポジションに配置したこともこの時教わりました。

・T-2通常機もブルーがすっかり終わってから最後地上滑走展示なのか、飛ばずに動いていました。(人波が捌けた後なので見えていた。)
・ブルー予備機はなく、通常機が予備機という認識だと岡本隊長が話していました。

余談ですが
松島隊、実は機体と一緒に前日午前入りし、人はホテルに泊まったと(本人達が)言っていた記憶があるのです。当時芦屋基地内に人数泊まる所がないとのことでした。
私は帰り際に、当日帰投で芦屋から築城へ…「!?今から築城なの!?」までは聞いたのですが。(からの浜松泊?か築城泊かどうなんだろう)
ブルー整備員さん達は大半の人が機体とは別便ですが、T-2通常機と22飛行隊3名(ツチヤさん、後輩整備さん、22パイロット)はブルー機やブルーパイロット達と行動を共にしていました。

もう地面は乾いて水たまりは見当たらない

ハート
私たちが見上げる空を、あの速い飛行機が駆け抜けていました。カラースモークがまさに航空祭!という感じがしました。
初めての距離感で近くて…も。

おじさんが「今年は是非飛行場の中で」とここをお勧めしてくれたのです。
今日は解説もあるし。飛んどるし。良かった。後でおいちゃんにお礼…言わんと…。
わぁ。

私たちは空がよく見えるように、途中からはテントの屋根を避けてそのすぐ脇に出ていました。今度は2機で何かやるようです。

「見て!何かな何かな〜?」「……ハート!」「ハートはわかるよね!」
私たちのすぐ横、テントの中にいた本部席のアナウンスがこんな風に言っていました。

若い男性隊員の声で

「ご覧ください。進入してきました2機が大きく空に図形を描きます。大きな大きなハートです。本日は空域の高度制限によります関係で少し斜めに傾けたスラントと呼ばれる状態で実施しております。『スラント』は『斜めに傾ける』という意味です。
本来は垂直に立ち上がったハートを披露したいところですが、天候等の条件によりこういった『スラント』また水平での『レベル』ハートになる場合もございます。
本日は天候ではなく空域の高度制限によります関係で少し斜めの『スラント』ハートでの飛行演技となっております。

…地上で今ご覧になっている皆様、そして大変遠くにいる我々の仲間たちからもよく見えるように……大きく、高く、出来る限り力の限り高く高く、空に大きなハートを描いております。

…描き終わりました!
ただ今の演目は『スラントビッグハート』でした!」

心のビッグハート

ツチヤさんがその空に描かれるハートを見て言うのです。「斜め…あれ斜めか?まあ斜めっちゃ斜めかぁ?一応ね!」
すると『フクオカ』の人がこう言います。
「一応ね。まぁ見た目ほぼ垂直よなあ。やるなあー。高度は守ってる。計器上はだけど、守ってるはず。」「…あれだけ上がれば…」

「…築城(ついき)から見えるかなぁ……」ツチヤさんが言いました。
「ツイキ?」私が聞いてしまったから…

特急使おう
芦屋の大人たちが気付いて笑いました。
「築城?いやここは同じ福岡やけど築城は結構遠いよ」「電車は特急使わんと遠いで」「築城からは無理やろ見えんわ」「アレ?放送、遠くの仲間って松島と違うの?築城?」
何気なく口を突いたツチヤさんの「築城」の一言が子供の質問で大きくなってしまったのです…。

…でも『フクオカ』の人は言うのです。
「すぐそこだ。きっと見えるさ。」

「?」私は築城に行ったことがなく距離を知らないので、そうなん?近い遠いの?と思いました。
「あんたどこの出身ね?」芦屋の大人が聞くのにその人はこう答えます。
「私は生まれも育ちも福岡です。特急云々は地上の話でしょう。我々は今、空の話をしている。オイ!今日特急使ったか?」(斜め後方にいたご家族、その日そちら方面から来ていました。)「今仕事中なので。詳細は後でこいつに聞いてください。

ツチヤ。築城、本当にすぐそこだぞ。T-2ならちょっとだ、すぐ着く。それに空の上なら高く上がればかなりの範囲見える。実際乗ってるパイロットが言うんだ、こっち信じろ。
そいつらT-2のパイロットなんだろう?」
「はい…。」

しばらく見えていたハートのスモークが流れて消えてゆきました。

「ツイキ近いん?」「パイロットはああ言ってくれてるけど…結構遠いみたいね…俺知らなくて」「秒とは言わんがだぞ。俺はさっき見て驚いた。」

秒とは言わんが分で着く
実はこの『フクオカ』の人は、つい今さっき調べて検討して心底本当に「…近っ!」と思ったからなので正直に本当の事を言っている。
彼はブルーだ。今日は地上担当とは言え常に代打の可能性があるので、この時実際搭乗したパイロットと同様の事前準備をした後なのだ。
秒とは言わんが分で着く」これは現在のパイロット(F-2だが)も同様のことを言っている。

X(旧Twitter)@TsuuNaka つぅさんの投稿より
拡大、許可あり感謝です\パンサー!/
2023年at芦屋ジオスフライト動画あり

「怒られない程度に飛ばせば3分で着く。F-2の限界に挑戦すれば1分くらいで着けそうだけど、じおすは社会的にラストフライトになってしまう。」
芦屋航空祭で築城のF-2がリモート展示をする際のF-2パイロット(TACネーム)ジオス本人による説明。
2023年(令和5年)10月芦屋航空祭で展示された築城8SQのF-2じおすおしながき より

T-2は最高速度マッハ1.6。
F-2は最高速度マッハ約2.0。

1982年の『フクオカ』の人、T-2ブルーパイロットはこう続けている。
「飛行展示中に何かあったらトラブルの内容によってはここ降りずに築城にそのまま向かうのもありだぞと思った、それ位近い。何なら築城発着のリモート展示でもいい位だけど、まぁそれじゃ離陸のトーチが見せられないしね。」
トーチは見せたい、そして芦屋では同型機のT-2を全く運用しておらず、一方築城にはこの頃T-2運用で飛行教導隊が所在しており普段からの整備実績があるので、上記の対処になる。

遠くの仲間
近いか遠いか?松島か築城か?
ではナレーションを今一度確認してみましょう。再掲します。

…地上で今ご覧になっている皆様、そして大変遠くにいる我々の仲間たちからもよく見えるように……

普通は「東北、松島にいる仲間」に聞こえますし、マイクに向かって喋っているこの芦屋勤務の人もそう思って言っています。

ですが彼ら、特にツチヤさんにとってはこれは「築城」でした。
その一文を『フクオカ』の人がその場で直前に書き加えていました。

「あのさっきの放送の…遠くの…仲間ってとこ…足してくれたんですね。恩に着ます…!」「おう。」

見ると、『フクオカ』の人がこちらにアナウンス原稿と鉛筆を見せてくれていました。
「ちょちょっと書いてお願いしといた。礼はこいつに言って。」

横の若い芦屋の人は『フクオカ』の人と知り合いのようでした。(パイロット職の人間の方が良いだろう、という理由でブルー飛行の時間のみ芦屋も放送係の人をこの人に変えていたようです。『フクオカ』の人が最初からやりやすいようにその場で上手くやっておいたのでしょう。)

「ありがとうございます!!ありがてえ〜!ってそうだ今飛んでくれてるパイロットが一番ありがてえ」「戻ってきたら礼言っとけ。」「ハイ!」

(注・現在はナレーションもブルーインパルスパイロットが訓練し務める重要ポジションの一つとなっています。)


実はこのハートの後、『フクオカ』の人は一瞬テントを離れている。こう言ったのだ。

「今日ブレイクやるかなあ。……えっ?ブレイクは英語。?えーとあっ英語そうか…子供ブレイク分かんないのか!!
…しまった、原稿ブレイクにしてる!…日本語だと『散開』?何て言えばいいんだ!
おいツチヤくん助けて。うんそう困ってる!こっち隣もパイロットなんだ。ブレイクで通じちゃうんだよな。アップ、ダウン。ハイ、ローで。」

「う〜ん俺なら……『開花』とか!花良くない?こんな小さい子も見るんだし。お花、分かる?」「ツチヤは『開花』ね!」

百合型をイメージ

「お前はどう?(ナレーションしている隣の人に)『傘型散開』?…あでも上は…傘?
うん、上と下とある。下は傘だな。よしこれでどうかな。あった場合は上方…上向きだと『上向き散開』。下向きなら『傘型散開』…にしとこうか、よろしく!マイクは任せた!すまんすぐ戻る!」

惜しい
角度が実際とやや異なる

「俺達はブレイクだ。そう、俺それだけ今日見たいんだよね。横地さんどうやるか、そこ見とかないと。今日上かな下かな?やらないなら何でやらないのかも見とかないと。岡本隊長やる時もやらない時もあるから。

…えっ『散開』も分かりづらい?漢字か。おぉ…。こういうやってみなけりゃ分からん所がちょこちょこあるんだよ。さっきの下川さんの展示服なんかもそう。今日飛べて良かった。ツチヤは『開花』な、後で相談な!」

だからナレーションを芦屋の知っている人に頼んだのだ。途中で自分はそこだけ抜けられるように。
でもツチヤさんの為のナレーションも隙あらばどこかに入れたかった。
最初はツチヤさん本人にナレーションさせるつもりもあったが、彼は私の解説を任されてしまった。

5m位先で見ていたがすぐに気付いた。
「………アレ?…もう終わりかぁ…今日やらないのか。…アレッ」
……そしてローリングコンバットピッチからの着陸を数えて4機なのでそこで初めて気が付いた。
彼の先輩4番横地さんは地上滑走で上がっていなかったのである。我々無線なしで見ていた為、ここで気付いた。
この日はブレイクも開花も傘も披露する事はなかった。

皆が戻ってきてから『空中開花』の名称の案が出た。

現在の人気課目「スタークロス」

T-4ブルーインパルスとなった今も
当時のその名残りが残る
技始まりの合図は『空中開花』

星を描き終わる頃には消えてしまう
私達だけの「花束」
是非現地で注目してみて欲しい

着陸…えっ吊るしものクラブなの?
ところで着陸の際のツチヤ整備員はというと…
「そうそうあの赤いのが…アレッ?…アレ…、書いてる?ねえちょっとパイロットさん!パイロットの目なら見える?…子供なら見えるかな?うんそうパイロットはね、目が良いんだよ〜」
「…うん?何。タンクの横ぉ!?俺でもそれは見えんな角度的に。何?字って。あ!試しってそれ?俺それまだ見てない」
「カッコイイんすよ〜!いや、俺がやったわけじゃないんすけど!考えたのも俺じゃないんすけど!」

ドロップタンク(増槽)にT-2ブルーファンお馴染みのBlue Impulseの文字がまだ無かったのです。激レア!

鉄道好きのおざようさんのページ
『おざようの過去ネタ三昧』より
「T-2ブルーインパルスの増槽付」

ありがとうございます!
これはat小松だったようです
ここらへんの話でござるよ
(ブルーインパルス公式ガイドブック2022裏表紙)筆記体オシャレ

現T-4ブルーでもキービジュアルとなり
機体や展示服などあらゆる所に採用されている

吊るしものクラブ詳細 (資料です飛ばせ)
以下展示後の岡本隊長とツチヤさんの会話より、模擬サイドワインダーとドロップタンクについて。

・「今回少しでも見映えを良くしようと付けられるものには付けてみた」ここは主に模擬サイドワインダーの事である。
・模擬サイドワインダー…「模擬弾」。機体により付け所のある・無しの機があるとの説明。
・「育てた子供を…機体もパイロットもだ…衆人環視のもと披露する、出来るだけの事をしてお見せしたい親心だ」
・「ハチロクと違って翼が短いからやっぱり何かしら欲しいな、ないと寂しいな」
…ただT-2は機動性の面でやや小回りが効かず、少しでも身軽にしたいという意見もパイロットにはある、とのことでした。

・「タンクは全部付けた?」「実はちょっと数足りてない、あるだけは全部付けた、タンク赤は映えるな、目立つな、オレンジだけど遠目だと赤に見えるな」ハチロクブルーイメージ。
・「あるの持ってきてないんすか」「試しの大事な見本は今回松島(基地)に置いてきた、ホラ実はあれドロップ(投棄)出来ちゃうからさ…」「よっぽどでしょう」「その余程を考えちゃうのがパイロットよな俺も」
(注・緊急時にはこの切り離し式タンク等を海上などに投棄し、機を身軽にして事態の好転を図る対処方法もある)

・「何機か…あれとあれ分…あ、あれはあったのか?足りなかったけどまあ付けられるだけは付けた」「字あるの持ってくれば足りたのにぃ〜俺この子にあのカッコイイの見せたかったぁ〜隊長〜」「すまん」

・「分かったよ松島(航空祭)までにはそれやろう全部出来るかな、でもやった方が良くなるよな」「ですね22も手伝いましょうか」「いやこっちでやれるが結構数あるからな」
「でもある方が俺絶対カッコイイと思った」
「だよなツチヤくんは絶対あっちのが好きよな」「ツチヤでいっすよ」
・「お前22だから22の隊長に悪いだろ、あっお前って言っちゃった」「お前でいっすよ俺勝手に居させてもらってるんで」
「他に何かいい呼び方ないかな…貴様と言う人もいるが昔の人は」「見たことあります?」「俺あるんだよな、あれ事前に言われててもびっくりするよな悪い意味じゃないと言ってもな」「そっすよね」「まあ貴様じゃなければお前しか浮かばなくてごめんな」「お前でいっすよ」
・「大体俺はファイターパイロットで目立たないのがカッコイイと思っちまうから、でも今回はそれじゃ駄目だブルーインパルスなんだ!若い者の意見を聞かせてくれ、ツチヤやその子の意見は大事だ、まあ字は俺もある方が良いと思う」
(注・特にファイター機にはステルス性も重要だ。)

1機分足りずノータンクなら、上げずに地上滑走の3番機か。(2機分なら6番…かな、でも1機分の不足だけで足りて、6番はタンク付きで飛べたのだ。着陸の時4機全部付いていた。)バランス的にはそうなる。

模擬サイドワインダーの付け所はT-2前期型/後期型で無し/あるなのですか。えっそれも絶対じゃない?
…機番1982年シーズンT-2ブルーインパルス載せときます↓

↓ by SS
参考文献
『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』武田頼政 著(文春文庫)

編隊のポジションの役割等についてはこちらwporepさんの wporep.comwporep.comブルーインパルスのページを。
現在のT-4ブルーインパルスできれいに解説してくださっています。美しい。

芦屋は万国旗も出していた
松島の人に「…いいの?」と突っ込まれた記憶
仮想敵国の旗を気にしたのだ(時代は冷戦時代)

おいちゃんはハッとしていた
「俺らも…他人事じゃねえんだな…」

ありがとう
フライトを終えてパイロットたちが帰ってくると、ツチヤさんは子供の私にもわかるように彼らにいろいろ質問してくれました。
ハートを描いた人はだれ?」と言ってみたら、ツチヤさんがその人を呼び止めてくれました。パイロットが立ち止まってくれて、ツチヤさんはその人にありがとうを言いました。
その人は飛んでいたから「うんよくわかんないけどツチヤ後で教えて!」と言っていました。

行きにヘルメットを持っていなかった人である。帰りは一式抱えている。メットはカーキ色。そして点検に出してもう一回戻って来た。その話聞きたいからである。
下川さんだ。

「やっぱり子供ハートは好きだな」「わかりやすいですよね」「海外のチームもハートは大抵やってるな。チームによっていろんな描き方があってな。人気があるんだよな」
「ハートは入れるので決まりだな!」

「名前、ビッグ付けた方がいいです?…あ俺いま付けたかな…原稿だと最後だけ付けてるな。演目?課目?」「演技課目」「短く」
「俺は課目が良いかな。曲芸いわれるより曲技よねという気持ちを込めて。課目」「隊長は課目ね。ビッグはありで」

「『ビッグハート』ね!よし!」

X(旧Twitter)@jasdf_airpark
浜松広報館エアーパークさん公式の投稿
 より
なんと!
\↑これこの時まさにあのハートを描いたその機/

当時の彼らと想像を絶する苦楽を共にした
歴戦の勇者、その名も
#111…トリプルワン

人に歴史あり機体にドラマありだ

「チビっ子!どうだった?俺らカッコよかった?」「…?音がカッコイイ……えっエンジン音か!!今日音楽なんかないよね!?」

ミュージック
答えて「ここ運動会みたいな音楽しか用意が無かったから、ブルーインパルスの時はかけないようにした」と芦屋の人。

当時の♪会場BGM等は(ブルーインパルスの時間も)主催である現地の基地側が中心で回していたように思う。そしてカセットテープ。この入れ替えで曲間が空くのだ…DJが繋ぐなど皆知らない。
最後撤収の「♪蛍の光」だけはどの基地も共通だったのだろうか。

「そうかーまぁ音楽なんかもあるといいけどなあ…」

♪BGM問題
「三沢あるよ」「三沢は米軍さんいるから」「うんアメリカさんは派手。」
「あれ著作権はどうなっとるんだ」「どうでしょう?」「俺達は無視できんぞ著作権」
専用の曲作るしか」
「サンダーバーズはどうよ」「バーズなら専用曲あるかも〜でもアメリカさんは勝手に商用の使って怒られないんじゃない?」「本国でもか」「軍人割がある位だから」
「でもサンダーバーズは遠征ツアーもある、その時は?外国だぞ」

続ミュージック  (筆者の趣味、飛ばせ)
そしてその後の飛行展示の選曲は、お手本がアメリカンスタイルなので迫力系一辺倒になりがちだったかもしれない。著作権問題で「洋曲の方がかけやすい」との声を聞いた事もある。(今は世界的ネット社会なのでこれも事情が変わっている)
トップガン』(1986年)ヒット後は長らくお馴染みのあの曲が使われていた。

現在の航空祭は大変キャッチーな雰囲気。流行りの最新曲からアニソンやゲーム音楽等も様々取り入れており、見せ場でフライトと曲のタイミングを合わせたりと、主催・パイロット・観客が一丸となって楽しんでいる。

♪現在のT-4ブルーインパルスは
専用の曲を使用しています
とても盛り上がる

そういえばもう時代はCDですらないかもしれない

↓T-2ブルーインパルス時代の珍しい♪BGM成功例を。とてもお洒落で軽やか!
YouTubeより「ブルーインパルス1992入間〈カラースモーク・バックファイヤー〉」
1992年入間航空祭、T-33機で参加した芦屋勤務のパイロットづてに当時聞いた話だ。
「入間の航空祭!!音楽好きの(定年前の)入間基地司令(基地トップ)が全部選曲して用意したそうだ…!ブルーインパルスがすごくお洒落になっていたぞ!」と。
ハイセンスな人もいたのだ。


「そうだよなあーBGMかあ。俺そういうのも見て来たいわ。だいぶ先になっちまいそうだけど行きたいんだ。
RIATはいろんなのが来るんだぞ。ヨーロッパもアメリカもある。音楽なぁ…チームや場所によってそこも違うのかもしれん。」

RIAT…イギリスの有名な大きなエアショー。リアット。またはエアタトゥー。
The Royal International Air Tattoo 。

(そして、自分はどうしても行きたいから自力で隊外の好き者と協力し人数を集めてツアー会社に掛け合う、一定人数いればいけそうなんだ!その為なら有給休暇なんぞ全部くれてやるわ!というか普通に休んで給料使って行く。と言っていました。)

…この人はその後、ついに1985年7月にRIAT行きを実現したそうです!                              

女王のお茶会  (横地さん強い、飛ばせ)
1982年6月に本人が言っていたRIATに行きたい理由は以下の通り。

・まず俺はレッドアローズ(英)を見たい
・RIATならサンダーバーズ(米)も来るので両方見られる
・ブルーエンジェルス(米)はあまり遠征しないチームだからひとまず置いておこう
・T-2ブルーインパルスはアメリカンアクロスタイルをお手本に採用した訳だが、やはりヨーロピアンアクロスタイルも見てみたいところだ(誰も見たことがないからアメリカンを採用せざるを得なかった)

・RIATは興行ショーなので、トレードショー(見本市)のようなトレードデー(関係者のみの日)がない、一般客も期間中丸々見放題だしチケットを買えば誰でも見られる
・軍事見本市であるトレードショーよりは俺らの立場でも問題になりづらいと思う、RIATは「女王陛下の為のパレード」的な意味合いらしい、女王のお茶会
・なので国際親善だ、俺は女王に挨拶しにゆくと思え!隊長俺女王とお茶してきます!
イギリスは紅茶文化だ

アリスのティーパーティーをイメージ

「ええ〜横地さんオジサンなのにアリスなのお」
「じゃ俺帽子被った人な!
…あのシルクハットは脱いだらどこに置くんだ?
ツチヤその制帽かさばるよな」
と言っていた

・ファーンボローも良いがそっちはトレードショーだから、現役中の今回は後進の為に大事を取ってRIATで
・でもツチヤやこの子の時代はトレードショーでも構わず行ってくれよ
(「5歳児を隊に勧誘する気か!」と思わずツチヤさんは突っ込んだ。大丈夫です隊には入っていない。柵の外にはいる。)
・俺は何しろ最初だから遣欧使節団だ!俺は岩倉具視(いわくらともみ)なのだ、そして早く行きたいから自費で行く

wikipedia「岩倉使節団」の項より

なぜ岩倉具視かというと
この話をしているのが1982年だから
500円玉硬貨が登場した年なのです!

当時使われていた旧五百円札の肖像は
岩倉具視(断髪後の洋装姿)
さよなら岩倉具視…という時勢を反映

・そうだショーは1日じゃない週末土日2日間ある、記念の年は3日間と言い出しかねん規模だ、その前後の予行帰投もあるならそれも視野に入れたい(注・近年は金土日3日間開催のようだ)
・期間中見放題なら天気が多少悪くてもどこか晴れるだろう、イギリスは雨が多いと聞いてやや心配だが
・多少天気が悪くて飛ばなくても地上展示を見るだけで多分1日使って足りない規模、行った甲斐がなくなることはまずあるまい
・近くに博物館があったら見たい、パリのショーにNobさんが行って軍事や航空の博物館回ってたのを読んだ、日本と違って実機が古いのも新しいのも残っている、Nobさんが行けていない博物館は俺が見よう遣欧使節団だから(注・時代はインターネット以前

・ヨーロッパにはパトルイユドフランス(仏)やフレッチェトリコローリ(伊)もいる、同じヨーロッパなんだから来るんじゃないか是非見たい
・ヨーロッパ各国のチームもアメリカも一堂に見比べたいのだ、RIATには西側だけでなく側の機も来るらしい、
女王陛下凄いな!
(注・まだ時代は東西冷戦時代

帽子屋さんは止まらない
さっき地上滑走だったですしね

・ショー土日2日、前日に各機の到着や予行があるなら金曜1日、博物館もあった場合はそこに1日欲しいから合わせて4日、行きと帰りで1+1=2日要るから計6日は必要、何なら帰投も見たいがそれが月曜なら計7日、水曜か木曜出発〜1週間だな!…博物館日で調整な

・と言ったら「3〜4日の日程じゃないと人が集まらない」という話になっている、どこを取るかが悩ましい
・パリも良いがパリだとレッドアローズが来ないと困る、わしはレッドアローズ(英)をどーしても見たいゆうとるじゃろ、だからイギリス!RIAT
・レッドアローズの使用機はBAeホークであるぞ。(注・1979年頃〜現在に至るまでこの機種を使用。現BAE)

これがT-2ブルー最強の刺客、伝説の激マニアパイロット・横地正治さんその人である。

一緒にRIATツアーに参加した方のページが出てきて拝見した。
『IAT85と横地さんと私』 …1985年(昭和60年)7月10日(水)〜7月18日(木)…本当に1週間の日程で組んで実現したのだ!
ブルーパイロット絶賛現役中の事であった。
隊長俺女王とお茶してきます!

↓パッチがキュート

その後、1991年(平成3年)3月12日
横地さんは亡くなった。

デブリーフィング
一つ決めてはまた一つ、「だいぶ決まってきましたね」とツチヤさんがパイロットの人たちに声をかけると、「まだまだ!細かいところはこれから決めなきゃならないことが山程あるぞ!」とそんなことを口々に言っていました。

松島の人たち、活気があったのだと思います。入念な準備期間を経て新しいことをしようという時ですから、フライトを終えて帰ってきたパイロットたちの会話もああしたら、こうしたらもっと良くなるんじゃないかと…楽しそうでいて内容は尖端まで研ぎ澄ませていくような、突き詰めてゆく雰囲気があって。子供ながらに憧れました。
今思えば会話の端々に専門用語があったものの、ツチヤさんが「わかるかな?」と上手くフォローしてくれていたのでしょう。

デブリーフィング…フライト後ミーティングのこと。フライト前はプリブリーフィング(ブリーフィング)がある。

展示飛行も終わり、パイロットたちも談笑して後ろの隊舎に入って、これからデブリーフィングがあるのでしょう。
『フクオカ』の人も「ツチヤくんまた後でね!」と行ってしまいました。デブリーフィングに参加するのです。

ブルーインパルスが終わってしまったので見ていた大人たちもそれぞれ持ち場に戻り、人がぐっと少なくなりました。

白い手袋
あらかた人が捌けたところで、ツチヤさん…その紺色の冬制服の人はポケットから白手袋を取り出しました。
「折角その為にはるばる来たんだから…」
白手をはめ、制帽を被って。芦屋基地の大人に尋ねました。
「築城(ついき)はどちらですか」
?方角……海…あっちが北だから…東南方向…あっちかな。こっち?
…こっちね。ありがとうございます。

築城の方へ敬礼を…


彼にとって、この航空祭への参加は…5年前に遠い九州の地で仲間を亡くした事故への慰霊の旅だったのです。


1977年(昭和52年)6月17日、第4航空団松島第22飛行隊(宮城県)のT-2が福岡県築城基地にほど近い山中に墜落し、T-2#122と乗員2名を失いました。
第22飛行隊正式発足前ですが、松島基地では既に実質稼働していたそうです。
事故時、既に松島基地に勤務していた彼は松島で「泣いてしまった」と。不慮のことでした。
隊長に泣くな!と叱られたと。

wikipedia「T-2」の項より
22飛の#122号機の墜落は
1977年(昭和52年)6月17日

だが知られず残らなかった

「先輩、キザっすよ」いたたまれなかったのでしょう、いつまでもテントにいるので呼びに来た後輩整備員さんにそう言われて、ツチヤさんは照れていました。
「さすがに礼服だと目立ちすぎだし、でもなるべくちゃんとしたかったから……冬服でも充分目立っちまったい。」

(前述の芦屋のおじさんは最初「何だ夏服クリーニングに出しちまったのか?まあいいけどよ…」なんて言っていました。…そしてブルー後、人が捌けておじさんもテントに戻ってきたところで聞いた「白手」。
その一言でこの事情を知り、冬服の彼が新聞の切り抜きを今大事に持っていることを即座に聞き出し、頼み込んで一瞬借り、速攻ですぐ後方の隊舎のコピー機でコピーさせてもらったのですが……)(→これが前回のお話「鉛筆の◯とフォン・ブラウン博士の訃報」へ)

ひっそりとした個人的な慰霊です。
それを見ていたのは芦屋の大人が数名と、ツチヤさんを呼びに来た松島の後輩整備員さんと、私ぐらいのものでした。

実は私を連れてきた祖母は他の兄弟に付いていた為、その時はこの場にいないのです。
アナウンスをした人も知らないでしょう。彼は『フクオカ』の人のご家族のアテンド(案内)を頼まれていましたから、もうその場にはいない。
(ツチヤさん、実はハートの時に「今だ、やれ」と『フクオカ』の人に勧められてるんですけど「えっ…いやムリムリ無理ーこんな注目…いいっす後で…!」と。知らずにごめんなさい。)

「まあなー築城(航空祭)だと時期全然違うし。日程的にも多分忙しいよね?無理言って連れてきてもらえるかわかんないし。やっぱ日にち近いこっち(芦屋)チャンスかなと思って。」

正式発足前の準備期間含めあの日泣いてから5年。
ようやくT-2はブルーインパルスとして展示飛行を披露できるところまで漕ぎつけたのだ。5年前亡くした仲間にも是非見てもらいたかった。そういう気持ちも込めた行動だったように思います。
あのビッグハートのナレーションは、「兄貴分」のT-2ブルーパイロットがそのツチヤさんの気持ちを汲んで、その場で書き加えたものでした。

…地上で今ご覧になっている皆様、そして大変遠くにいる我々の仲間たちからもよく見えるように……大きく、高く、出来る限り力の限り高く高く、空に大きなハートを描いております。

ツチヤさん、もともと彼のT-2への思い入れは並々ならぬものがありました。松島基地勤務の前は浜松(静岡県)で教育を受けて(教材はF-4ファントム)でも新しく来るT-2をカッコイイと惚れ込んだ。是非T-2をと。親戚がいるわけでもない地元でもない松島に希望を出した変わり種でした。

彼はブルーT-2機を「スター」、通常T-2機を「ただのT-2」それが人間みたいと表現していました。自分はただのT-2 、あの人達はブルーな訳だけど、どちらも同じT-2だよと教わりました。

…機体を人に例える(人を機体に例える)のはこういったものが好きな人にはままある事のように思います。ある瞬間それを人として見ていたり、更にはそれを自分と重ねてしまうのです…。

花婿
後輩整備員さんが続けて聞きました。
「先輩、式は礼服っすか?」「儀礼服?いや、でも彼女全然自衛隊関係ない人だからなーどうかな。」
このツチヤさん、ご結婚のご予定があったのです。
松島勤務で知り合って一目惚れした人が同期の家のご近所さんだったようで、彼女はご実家が石巻の人なのでした。

「……それに俺、その時自衛官じゃなかったらそれ着られないしな。」「え」「寿退社しようかとちょっと思ってる。俺が。」

彼女のご実家を継がないか、名前は変えなくていいってあちらは言ってくれる。自分はでも名前だって変えても構わないと思ってる。まだこれからの話だけれど……。そういう話でした。

「でも上下白のタキシードだったら俺儀礼服の方がいいなー白は恥ずかしいー!まあ恰好は花嫁の意見に合わせるよ!」

「T-2。21飛行隊。できれば22飛行隊のことも。覚えておいてくれると嬉しいな!」
5歳の子供にそうツチヤさんは言いました。笑って、こんな風にこの日のブルーインパルスは終了したのでした。


面白かったわ。…なんかいろんな話が聞けたわ…。あの尖った飛行機も、みんな好きそうやったわ。
(この時私は白手の意味がまだよく分かっていないのです。冬制服も紺色ブルーとお揃いは嬉しそうでしたからね。)

私はツチヤさんに来年の航空祭でまた会えると思っていました。「松島」が芦屋から遠く離れていることがよくわからなかったから。「寿退社」も5歳にはちょっと早かったかな。


1982年11月14日、浜松で事故が起こりました。


あの時私は芦屋でおじさん達といました。
おじさん達は一瞬でも生存を信じたくて…「救助出来る」と信じようとしました。
現実は残酷でした。

『フクオカ』の人、
高嶋さんが亡くなりました。


翌年航空祭は開催されませんでした。芦屋でも、全国の他の空自基地でも。

その次の航空祭も、芦屋にはブルーインパルスは来られませんでした。


東北松島がとても遠いことを知りました。

(そして芦屋のおじさんは当時のその状況で何が出来るかを精一杯考えて、一人の子供にわずかな希望を託しました…
だから私は新聞記事とツチヤさんを探し(捜し)続けているのです。
→これが前回のお話「鉛筆の◯とフォン・ブラウン博士の訃報」の内容)


私は築城には行かないまま上京し、今は関東、入間(いるま)近郊にいます。(航空自衛隊入間基地があります。)

花とハート
外柵で、あの年1982年11月3日の入間のことを聞きました。
初めてのT-2ブルーでしたからね。

入間航空祭では6機全機上がったそうです。カラースモークで。

赤オレンジのタンクにはもうBlue Impulseの文字があって。
きっとその時はツチヤさん、松島でお留守番だったのでしょう。

気にしていた方もおられたということが、私にとってはとても救いになりました。
そしてここには他の基地近くから遠征の方もいます。色々な年代の様々な方がいます。たくさん教えてもらいました。
皆さんヒコーキ好きで来ていますし、良くしてもらっています。

ハートを見たんです。垂直より少しだけ斜めのビッグハート。それから白い手袋を。82年の6月に。
人を…捜しているんです。5歳からずっと。来年会えると思ってずっと会えてなくて。


不死鳥へ

時代も移り、現在は第11飛行隊T-4ブルーインパルスです。
2011年の東日本大震災の際は宮城県松島基地も大きな被害を受けました。奇しくもブルーインパルスは福岡県芦屋基地に展開中で奇跡的に難を逃れ、その後2年ほどの間ブルー機は芦屋から全国各地へ飛び回り、2013年松島基地への帰還を果たしました。

その後出来た新しい課目(編隊です)「フェニックス(不死鳥)」は復活・復興を象徴するものとして全国で人気を博しました。

……今あの人、ツチヤさんがもし元気で石巻にいたのなら。
震災もあったけれど、あの人なら。また周りの人の助けも借りて乗り越えられたでしょうから。

(5:20〜6:27黄昏フェニックス)YouTube
『20240803 本日のブルーインパルス 石巻川開き祭り 展示飛行』 leveloiさん Thanks!


1982年11月14日の浜松事故の件については諸先輩方も書籍で、インターネットで、様々な形で痕跡を残してくれています。
「『フクオカ』の人」は高嶋潔さんです。

未だ忘れない者も(良い思い出も)あることだけを被害者の方ご家族の方関係者の方周辺の皆様にはご理解頂きたいと思っています。


最後に、ここまで読んで頂けた皆様へ。
現在では安全対策も情報共有も進んでおり航空機事故の件数は非常に少ないことを付記しておきます。

S.S

私の記憶では手前のヤンキー座りに
なっちゃってるお茶目さんなんですけど

ツチヤさんについて
上記のように大変お世話になったのと前回お話した新聞の切り抜きの件もあって、私実はこの『ツチヤさん』を本当に長らく捜しています。
ツチヤさん、T-2ブルー再開までは自衛隊にいたようです。その後84年頃?ご結婚されて石巻へ…この頃に退官、新しく民間の道を歩まれたようで、ここで自衛隊関係からの情報が途切れています。

ツチヤカズミさん(男性、土屋和美さん)
現在67〜70歳前後でしょうか。当時の印象は優男というのか…いかつい印象はなく、中肉中背。背は高くはない印象、160はあるけど170cmない位?(整備の時は航空機の高い所、頑張って背伸びして届かせてるとのことでした。)

隣の飛行隊なのに「俺なんか(ブルーインパルスの)応援団みたいなもんだから!」っていう元航空整備士なので…なんていうかそんな人でしたね。

もうおじいちゃんだろうけど。どこかでまた何かの応援団してそうな気もしますね。


種明かし 新聞記事について

前回のお話「鉛筆の◯とフォン・ブラウン博士の訃報」にも出てくる1977年6月の新聞について

ツチヤさんが泣いてしまったという事故が報じられた切り抜きは、読売新聞1977年(昭和52年)6月18日(土)朝刊の一部の版のものでした。
当時、河北新報(東北の新聞社)では報道されなかったようで(福岡の事故ですしね…)ツチヤさんは職場や住んでいた官舎や近くの他の官舎に声をかけて(みんな河北新報さんだったんですって…)……そうやってよそのご家庭からようやく手に入れたものだと、後輩整備員さんに言っていました。切り抜いた状態でくれたそうです。

芦屋のおじさんも調べて翌年の航空祭で、彼が来られなくても展示に来た松島組から彼に伝えられるはずでした。それも航空祭中止に阻まれました…。
こちらでは同じく読売新聞18日(土)朝刊の他、西日本新聞1977年(昭和52年)6月17日(金)夕刊に第一報が載っていた(こちらも一部の版なのか調査中…。見たのは八幡(遠賀)版か)それを当時何とかして松島へ伝えようとしていたおじさんの姿を私は何度も見ています。けれど、たったそれだけが重要であることを理解できる人は少なかったのです。
…これは夕刊に載ったことそれ自体が、事故発生時刻が本当なのか精査する一つの材料にもし得るから大事なのです。

こちらも情報探しています!
何かありましたら是非SSまで。
よろしくお願い致します。

Nobさん入らなかった〜!


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