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鉛筆の◯とフォン・ブラウン博士の訃報

ノンフィクションです。1982年後半〜現在のお話です。探しているのは1977年6月のものなのですが。私はとある新聞記事を探しています、というお話です。
私は地方で育ち高校卒業後上京しています。
途中1992年頃のNobさんと石坂さんが登場します。

prologue. 鉛筆の◯とフォン・ブラウン博士の訃報

とある場所のとある図書館のとある新聞縮刷版のとあるページに、鉛筆で付けた小さな◯がある。
誰にもわからないようにそれは、私にだけ「それでいい。それで合ってる。」と教える為に、ただそれだけの為におじさんが用意した私の道標なのだ。

記事を探し始めて愕然とした。
その記事に記された一件は当時ほとんど世間からは認知されず、そのことに誰も興味が無かったことは明らかだった。
残されたのは新聞名も年や月もわからない古い新聞の切り抜きだけ。起きた日にちだけは記事本文の内容に記されていて分かる。だがどうやら地方版だったようで、しかも都内版にだけこの記事が無いのか最終版にも残らなかったのかが分からない。調べた昔の新聞の縮刷版はどれも都内版、全国版、最終版のもので、刊行された縮刷版に該当の記事は無い。
違う観点から切り抜きの記事の年月日は突き止めたものの、どの新聞社に問い合わせても返答は「該当記事はありません」だった。電子アーカイブのものもこの時代のものは結局当時刊行された縮刷版を取り込んだものが多いようだ。
切り抜きにたまたま入り込んだ紙面上部の特徴的な版数の書き方や字体から新聞社だけはわかった。

愕然とはしたが、それでもどんな材料もとにかくかき集めて細かいところまで思い出すしかない。

記事は私が生まれた年の1977年(昭和52年)のものだ。もちろん私はこの記事の内容が起きた時の記憶はない(つまり当時0歳である。)が、この切り抜きを大事に持っていた人と、その人の事情を知って他に情報はないかと奔走した人を知っている。
2人は私の大事な友達だ。
前述の「おじさん」はこの1人、奔走した方の人物である。私の肉親ではなく、子供だった頃近所に住んでいた人だ。

私がこの2人に会ったのは5歳の頃だ。記事の5年後にあたる。その5歳の頃の、私にとってはとても大事な記憶すら、後で聞いてみればどれも非公式なもので公式に残った情報には載っていない。
知らない人やあまり詳しくない人からすればそんなことも記事と同様どうでもよいことで、説明したところで良い答えが返ってくることはない。
それで私は勉強し知識を得て出会った詳しい人たちに事情を説明し、いろいろなことを教えてもらった。そんなことに興味がある人もそのことがどうでもよくない人もこの世界にいることが分かった。
詳しくなければ信じてもらえない。
だが本当だ。

その5歳当時の記憶は私が嘘をついているわけでもなく、記憶違いなわけでもなかった。
とにかくも、その当時はその人たちからすれば見知らぬ5歳児だった私の記憶は非公式だけれどどれも実際だったことを、その当時大人だった詳しい人たちが認めてくれた。
私の記憶はその人たちの長年の小さな空白や疑問を埋めるものでもあった。

詳しい人たちの中でも特に若い人たちが、ネットを駆使して得た情報を教えてくれもした。どうすれば調べられるのかもその都度教えてもらった。たまたま顔を合わせたような時には得た情報の他にも手掛かりになりそうな事を複数人で照合し、何が出来るか、どこにどう問い合わせれば良いのか話し合った。

前述の鉛筆の◯は複数ある。
私が行くであろう道筋におじさんは先々でそれを用意した。時には、理解してくれるであろう人に人づてに頼んでまで用意した◯だった。

理解者と思しき人のご友人に切り抜きのコピーを渡しておじさんはこう言った。
「どうかその人へお伝え願います。
〈…自分の後に必ずあの子が来る。あの子はあなたを助けに行く。どうかそちらの縮刷版に◯を付けてやってくれませんか…〉と。
お願いします。私はあの子供を道に迷わせたくはないのです。」
(これはおじさんの職場関係ではなく、このご友人がマザーグースの日本語訳を執筆し外国作家が描いた絵本の出版イベントでのことだった…理解者とご友人の間柄は模型趣味仲間か最後は本の挿し絵と執筆者の関係だったろうか?)

ご友人は内容をよく知らぬまま、だがこの見ず知らずのおじさんの気持ちとセンスを汲んだ。間違いなく伝える為におじさんが選んだ目印は「フォン・ブラウン博士の訃報」だった。(記事がある筈だった6月18日(土)に新聞各社一斉に報じたニュースである。)
こうして地方での仕事の際に見知らぬ男から突然に依頼されたこの伝言と切り抜きのコピーを、なんとそのご友人は関門海峡を越えてかの理解者と思しき人の許へ確かに届けてくれたのだ…。

そうして遠方に住んでいる人が(その人はおじさんの見立て通りおじさんと私の理解者だった!Nobさんである。2018年5月に亡くなってしまったが…)私が来る随分前から該当の縮刷版の正しいページに◯を付けてくれていた。
その◯のところに…あの記事は縮刷版では残らなかったがその日の新聞に確かにその記事が…あったんだぞ!とおじさんが私の背中を押す。

おじさんは記事の5年後、私が5歳の頃に、切り抜きを大事に持っていた人に職場でコピーをさせてもらい、その年月日を聞きだし正確にメモし、間違いないか彼にしっかり確認した。
1982年6月のことだ。
そしてこのコピーを手掛かりに調べた。

大きな図書館で縮刷版を出してもらったが、前述の通りその切り抜きが地方版で、そこにある縮刷版にはどこにも載っていないことが分かった。

次におじさんは、私とおじさんが住む町の小さな図書館でその記事が載った5年前1977年(昭和52年)の新聞を見つけ出した。
切り抜きの新聞社のものは6月18日(土)の朝刊だった。他にも地方の新聞社の6月17日(金)の夕刊に一報があった(夕刊の方はつまり当日の速報第一報だろう。)

だがこの図書館にコピー機がなかったのだ。

ここは1982年11月末〜1983年春頃の話になるかと思う。
おじさんは何度もその町の図書館に足を運び、頼みこんで新聞を出してもらっては自前のカメラで撮影した。最後には「職場の記録です、どうしても必要です、ご協力を」と言って…。
普通のカメラで、大きいカメラで。接写のレンズが要るのか。手持ちでは駄目なのか。三脚はさすがに持ち込めないかな。ライトは…ああ、助手が要るのか…。

おじさんは精一杯頑張った。でもあまり上手くはいかなかった。(夕刊の方は特に…新聞紙面の下の方にあった小さな記事を上の日付と一緒に撮ろうとしたのではないか。その必要があったのだ。)
フィルムを現像してみたがどれも字が判別できるかどうか…それでも良さそうなのを大きめにプリントを頼んで。「どうだ、読めるか?」と周りに見せては肩を落とした。
そこまでやればひょっとしたら図書館の人も最後には連絡してくれるのではないか…?(古紙処分の際には連絡をと頼んでみてはいたのだ。どうかこの日付のこれを取っておいてくださいと。)だがやはり理解する人はそこにはいなかった。
配達されてから5年以上も経って古新聞となった図書館の新聞は、その後知らないうちに処分されていたようだった。

それは私たちにだけ大事なものだった。
私が内容を読んで理解できる年齢なら、一緒に図書館に連れて行って直接覚えさせることも出来たろう。
だがその頃、私はまだひらがなとカタカナをようやくマスターした頃で数字は両手で10までは数えられる程度だ。時計も3時のおやつ以外を覚える必要があった。地名も…アシヤは知ってる。フクオカはこの前聞いたっけ。6がつがもう一回来たら、こうくうさいやるんでしょ?

読めないものはどうにもならないが、おじさんは私が大人になればその記事をおじさんレベルで、更にはかの理解者のレベルで読み込める才能があることを知っていた。(当時地方に住んでいたこの小さな5歳児に前述の遠方の理解者と同様の才能を一番最初に見出したのは、このしがない公務員のおじさんだ。)
そして必ず探し出すだろう…そう思っていた。

だが件の切り抜きには年も月もない。縮刷版にも残らなかった。
コピーのコピーをこの子供に渡しても親が取り上げて紛失する可能性が高い。
写真は切り抜きを大事に持っていたあいつ(私のもう1人の友達だ…)に人づてで渡せればいいが…夕刊のことはこちらでしか出ていないことだから…(だがこれも届くか怪しかった。)
来年あいつの仲間が来る時に何かしら渡してやれるはずだったのに。それも中止になっていつ再開出来るかわからない。

このままではこの子がいつか大人になって探す時にきっと迷って困ってしまう…。

おじさんの職は人を助ける仕事だった。「あいつ」も「この子」も放ってはおけはしなかったのだ。
おじさんは何か自分たちに出来ることはないかと精一杯考えた。
それで、将来大人の私が縮刷版で探す時に助けになりそうな事を子供の私に覚えさせることにした。(この頃にはもう6歳になっていたかもしれない。)

「ブラウン博士な」「おいおい本は大事にって教わらなかったか?」「鉛筆だぞ、鉛筆にしとけよ!」「ウェルナー・フォン・ブラウン博士。ロケットの父っていうんだ。」
(それあの人も言ってた…有名人?)

「何わかりゃしねえよ俺らみたいなの以外はな…」「確かにフォン・ブラウン調べるのに訃報から探す者はそうそうおらんな。」「だろ?それのそのページ見るのは多分俺らみたいな奴だけだ。ペンで書くわけにはいかねえけどな…」「確かに複数あればどれか残るかもしれん。」「他でもやる気か」「何の伝統だよ」

「ブラウン博士な。わかる?茶色って意味」「ぶらうん??」「子供にはスヌーピーのチャーリー・ブラウンの方が覚えられるかな」「アルファ・ブラボー・チャーリーな(←航空無線のA・B・C)」「そっちじゃねえ!ブラウンの方だろ!」「はかせなん?」

母は「うちの子に妙なこと教えないでよ」と言ってこれを訝しんだが、勉強は良い事だと私は教わった。

大人になった今こんな小話をし続けていたら、件の古い切り抜きが数奇な運命を経てつてにつてを伝い渡ってきた。切り抜きを最初に大事に持っていたあの人が「フォトブック(切り抜き帳)にして残すつもりだ」と言っていたものだ。(おじさんの写真の方は途中で止まってしまったかもしれないが。)
そして調べている。

この切り抜きは新聞名も年や月の記載も無いものだから(上記の次第で年月日が判明しているものの)そのままでは内容のことが起こったという証拠にもしづらい。これと同じものでも上の日付記載が入っているものがあると良いのだが…。
または地方の新聞社の夕刊の方(上記の次第で切り抜きすら無いものの、一報があったことだけは分かっている。)を追うか。
午後の本当にその時間に起きたことが夕刊に一文載せられるものなのかは新聞制作の現場を知る人に聞いてみたい…例えば同時刻に起きた他分野の事例を参考にするのはどうか。(件の記事では17日午後2時25分となっている。)
あるいはまだ問い合わせしていない中に他からの報道があったかどうか…。他の地方の新聞で当時少しでも関連興味がありそうなところは…。
地方の町の町史などに何か一文残った可能性もある。
石碑等に記載がある場合もある。

諦めそうになっては探している。
それでもどんな材料もとにかくかき集めて細かいところまで思い出すしかない。駄目かもしれないと思うこともある。だがひょっこり違う何かが助けになることもある。

その切り抜きを最初に大事に持っていた、私が5歳の時に出会ったもう1人の大事な友達にはまだ会えていない。
会えるかはわからないが生きている年齢のうちに探さなければ。
記事を探すことが何か足掛かりにならないだろうか。

記事を探すうちに生じる、世間の誰にも相手にされなかったような孤独感…。
その気持ちを切り抜きを持っていた人もおじさんも味わったに違いないのだが、その◯があることで不思議と緩和された。
「俺もいるぞ!」と。
「必ずあの子が来る」それを信じた人が背中を押す。

皆さんも昔の新聞を探すような際には是非「フォン・ブラウン博士の訃報」を探してみてください。そこに鉛筆で付けた小さな◯がありませんか?
そこ、その辺りに私たちの探している記事がありはしませんか?
もしそこに「これがあなたの探している記事では?」というものがあれば、是非!
何でも手掛かりにします。
私にご一報を頂きたいのです。

S.S



石坂浩二さんにこの「ありがとう」がどこかの誰かを伝い伝って届きますように



石坂さんのイメージは私もこんな感じです↓インテリジェンス…。
Mayimさんの記事です。とても好き。

絵本についてはこちら。

Nobさんについてはこちら。

フォン・ブラウン博士についてはこちら。「宇宙兄弟」公式サイトに紹介があります。エピソードに事欠かない人物なのです。

2024年9月 追記
今回のお話『鉛筆の◯とフォン・ブラウン博士の訃報』に至る経緯、具体的詳細はこちら。(1977年6月の新聞詳細も載せました。)

1982年6月…全てはここから始まった。その5歳児とおじさんの身に何が……?
episode0.『六月の冬服整備員と白い手袋 ✈ある日のブルーインパルス』
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