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元ボンボンの地団駄vol26

2012年のある日、僕は良く出来る営業マンGTOから某カフェに呼び出される。

その当時、色々なイベントを開催しているメンバーの一人に物流倉庫を経営しているメンバーがいた。その会社はメンバーの父が社長をしていたが、現場を取り仕切っていたのはメンバーの、自分の事を俳優の伊原剛志に似ていると思い込んでいる勘違いボンボンのマーシー。

GTOとマーシーは高校の同級生。

GTOに呼び出されたカフェに行くと、GTOがまあまあ神妙な顔つきで座っている。

どした?

あのね、、、と話出すGTO。

どうやら、マーシーの会社の業績が悪く、危ないという。。。

そうこうしている内にマーシー合流。

当然ながら超神妙な面持ち。。。

とにかく、色々聞いていると会社を継続させるのは難しい状況。では、会社の事は父である社長に任して、マーシーが生きていく術を考えようという事になった。とりあえず、会社は無くなっても今の仕事を続けるようにするには、、、ある程度のスペース(倉庫的な)があればなんとかなる。というのである。

ある程度のスペースかあ。どっかにあるかなぁ?でも借りるいうても大変やん。。。

ん?スペース?

あるやん。

うちの会社は僕が中2の時、父が鉄筋2階建て約800坪の倉庫を作った。これは自社物流をする為に作ったのだけれど、その当時はまだ空きスペースがあったのだ。

うちに来る???

ということで、マーシーと3名のパートさんを雇い入れ、そしてその時1番売上の多かった取引先の仕事を持ってうちの会社で物流事業をスタートさせる事になったのです。

物流業と言われても僕も知識が無いので、すべてマーシーに任せていた。

聞くところによると、あるアパレルの卸会社の商品に値札を付けたり、お店毎に振り分けをしたり、袋詰めしたりなどなど色んな作業があるのだけど、その1つ1つの作業に単価が設定されている。しかも、1つ作業単価が約5円前後!

5円!!!

正直、これはビジネスとして成り立つのかどうか、検討も付きませんでした。100枚値札を付けても売上500円!え?マジで??って感じです。

このなんとなく、あれよあれよという感じで始めた物流業。将来を見据えた訳でもなく、ただ、友達を救うと思って始めただけ。この何となく始めた物流が僕の人生にとって、おそらくトップ3に入るぐらいの大きな、そして重要な決断になったのだ。勿論、その時はそんな事これっぽっちも考えていなかった。

マーシーを雇い入れて1ケ月、締め日を迎えた。

売上が数十万円になっている。。。

マジで??単価5円の仕事で1ケ月経ったらこんな売上になるの????驚きである。そして、その売上から人件費を払う。

そう、僕が今までしてきたビジネスはこうだ。

100円でモノを仕入れて120円で販売し20円の利益を得る。そして20円のなかから経費を払う。もし100個仕入て完売せずに80個しか売れなかったら赤字になり経費が払えなくなる。

が、

物流はこうだ。

1個5円の仕事を1時間で200個する。作業代(売上)1000円。時給900円のスタッフに人件費を払う。残り100円。

どちらも当たり前のビジネスの動きではあるが、僕は物流のシンプルな構造がすごく腹に落ちたのだ。これはアリかもしれない。直感的に僕はそう思った。

バカボンはそう思ったら突っ走る癖がある。

そして、僕は奈良でやっている事業のほぼすべてを物流業に変える事を決める。その勢いで僕はグループ会社全社も物流業に切り替える事を父に相談したのだ。

しかし、流石にグループ全社を物流業に変えることはリスクが高すぎるという判断になり、それは断念し、僕の会社だけで物流業をすることになった。今思えば、無理やりにでも物流業に変えていれば、未来は大きく変わっていた。後から書くような地獄の日々から少しは逃れられたのかもしれないが、これはタラレバになるので考えるのはやめよう。

そして、僕は東京はこれまで通りの事業を続け、奈良は物流業とR.I.Aで事業を進めていくのである。

2013年あたりから、僕の東京出張回数が激増していく。とにかく、資金を調達する為にありとあらゆる手を使わなければ会社が回って行かないぐらいひっ迫していたのだ。東京に行っても、朝、事務所でマネージャーと状況を話した後はほぼ金融機関を回って、担当者と今の状況、今後の状況を説明するの繰り返し。

東京に行くたびに、僕よりも20歳以上年齢の離れたスタッフに色々な注文を付ける。時には声を荒げながら、、、

なぜこんな売上しか出来ないのか?

こんなに在庫が残っているのはなぜ?

会社に座っているだけで売上ができるのか?

僕の口調はどんどん荒く、大きくなる。最後には机を叩いてしまう。。。

スタッフも相当頑張ってくれていたはずなのだが、数字が伴ってこない。僕はこの状況をうまく金融機関に説明しないといけないが、プラス要素を見いだせないストレス。

こんな状態なのに、僕は今まで裕福な家に生まれ育ったきたプライドから、周りにはそんな素振りを一切見せず、青年実業家を演じるのある。

これではいけないと思いながら、でも何とかなるとも思いながら、、、結局ドンドン深みにハマっていくのです。東京の会社は主にスポーツウェアをイO-ヨーカO-などの量販店に卸す事業をしていたのですが、この頃からスポーツ専門の大型量販店が台頭してきた事により、一般量販店のスポーツ部門縮小が始まっていた。その影響をもろに受けていたのだ。A社の支払いをする為にB社から商品を買って販売し、その売上でA社に支払いをするみたいな完全自転車操業状態。

こうなってくると毎月の資金繰りがどんどん大変になり。。。

とうとう僕は各金融機関にリスケの相談をすることになる。

リスケ、リスケジュールの略である。返済期間、返済金の見直しである。東日本大震災以降、各金融機関はこのリスケに対してはかなり寛大な態度をとってくれており、リスケの相談はそこまで難航はしなかったが、これは同時に次の追加融資も受けられないという事を意味する。そう、銀行取引が出来てこそ大きな商いが出来るうちの会社にとって、銀行取引が正常に出来ないことは致命的なのである。この傷は瞬く間に広がっていく。。。

これは、実は東京の会社だけではなく、各グループ会社すべて同じような状況になっていたのである。狂った歯車はもう元には戻せない。

グループ全社で資金繰りが悪化し、とにかく僕は資金調達の為、走り回っていた。

物流業は大変ながらも取引先も増え、ある程度順調に回っていたのだけれど、そんな物流を任していたマーシーからまさかの報告を受けるのである。

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