老人は本当に集団自殺するべきなのか?
いつだったか、イエール大学教授の成田悠輔が「老人はさっさと集団自決するべき」と発言していた。
私は彼について詳しくないので、真意はわからないが、これからを担う若者世代のために、老人には早いこと退場してもらおうというのが、おそらくこの発言の意図だろう。
だが、本当にそうなのだろうか。
こうした意見に対する反論として、「定年を引き上げればいい」「技術の発展で老人も働けるようになる」というのがある。しかしこれも、「働く=価値がある」という考えに基づいているという点で、成田の議論とあまり差がないように思える。
そもそもこのような考え方は、どこから来ているのか。私の見立てだと、これは自由主義を土台として生まれたものだ。
リベラリストは、社会保障費の削減や撤廃を求める。それを過激化したものが、老人は集団自決するべき、という議論ではないだろうか。
たしかに、老人が直接的な利益を生み出しているかというと、必ずしもそうとはいえない。そんな彼らに、資源を使うことが無駄という考えが出てくることにも、一応納得ができる。
では、実際にそのような社会になったと想定してみよう。集団自決といっても、老人自ら首つりなどを行うのは困難だ。身体的な面でも、精神的な面でも、現実的ではない。
そうなると、残っているのは代理の人が殺すか、機械で死なせるかの2択である。人間による殺人のほうが確実だが、執行者の心理的負担は計り知れないだろう。
じゃあ機械に任せればよいかというと、それも難しい。よほど非人道的な方法を用いない限り、全てを自動で行うことは到底不可能だからだ。
考えられる案としては、家畜に対して行っているような、電気ショックによる殺害方法だ。そうなると結局、人間の力が必要になる。
そもそも、現代の日本では銃殺刑や電気椅子による死刑を行うことができない。罪のない一般人に首つりをさせるというのも、おそらく許容されないだろう。
集団自決を行わせるためには、私たちが持っている道徳規範に反する制度を作るしかない。それが電気椅子なのか、毒ガスなのかはわからないが、大規模に行う関係上、残酷な方法になることは避けられない。
集団自決の解釈を変えて、1人ずつ安楽死を行うという方法をとれば、いくらかマシになるかもしれない。しかし、大勢の人間に安楽死を行う用意ができるのかについては、甚だ疑問である。
実は、この思想を実行している集団がないわけではない。
Wikipediaの棄老という記事に詳しく書いてあるが、いくつかの文化では、老人の殺害が行われている。
主なやり方は、家族の重荷であると感じさせ、自殺に追い込むか、息子などの親族に殺させるというものである。日本にあった姥捨て山の文化は、後者に近いものだろう。
自分の親を殺すのは抵抗があるため、いくつかの家族で集まり、それぞれが別の老人を殺すという方法をとっている部族もある。自分の親が死ぬことに変わりはないが、直接手を下さないだけ実行が容易になるということだ。
では次に、この制度を導入するメリットについて考えてみよう。さっきも述べたが、これは食べ物や労働といった資源を節約できるところにある。
もし日本が食糧難に陥っており、明日の生活もままならないような状況であれば、この利点は意味をもつだろう。
しかし、餓死者がほとんど出ておらず、スーパーやコンビニに十分な食料品がある現代の日本で、この制度を取り入れる意味はあまり見えてこない。
もちろん、将来のことを憂慮し、持続可能な社会にするために、このような制度を提案したことは理解できる。だが、多数の老人の命と引き換えにしてまで、解決できるかわからない貧困や教育の問題に取り組む必要性は、おそらくないだろう。
そもそも、老人に使っているお金を別の用途に用いたからといって、本当に日本は発展するのだろうか。何も改善しないということはないだろうが、やはり人の命がかかっているので、それなりの結果が保証されてなければならない。
これは、倫理的な問題を抜きにした状態での話なので、実際は納得させることがより困難となる。というより、まず不可能だろう。
貧困をなくし、教育を行き届かせることは、言ってしまえば国民の幸せのためである。しかし、老人になれば死ぬことが確定している状態で、人々の幸福度は上昇するのだろうか。
20代や30代のうちは、以前より多くの幸せを感じられるかもしれない。
だが40代や50代になると、死ぬことに意識が向くようになるので、不幸だと感じる人が増えるだろう。なにより、社会から不必要であると告げられている事実が、重くのしかかるはずだ。
死ぬことを避けるために、年をとってから外国に移住する人も増えるだろう。そうなると、人々の絆や国民意識も希薄になり、日本は内部から崩壊してしまう。
老人に対する差別が横行することも、問題点の1つといえる。なにより国が、老人を不要な存在だと認めているのだから、差別してもよいという考えが生まれるのは、ある意味必然であるといえる。
それだけに留まらず、働けない人は無価値だという考え方が広まれば、障碍者や犯罪者に対する差別も助長され、彼らが社会で活躍することは難しくなる。
これらのことからわかるように、老人に集団自決をさせるという制度は、社会悪以外のなにものでもない。
ときどき、進化学の考えを持ち出して、そうした制度を肯定する人たちがいる。彼らは国や人類の存続を理由に挙げ、そのための犠牲として老人を殺そうとするが、彼らは一体何と戦っているのかと、疑問に感じざるをえない。
そもそも、国や人類という種を存続させることに、必然性があるわけではない。国のトップや、宗教を熱心に信仰している人ならまだしも、一般人である私たちが、犠牲を払ってでも人類を存続させるべきだと主張するのは、いささか滑稽である。
こうした主張をしている人たちは、おそらく現在の暮らし向きが良くないのだろう。現実逃避や腹いせのために、「未来の若者」というスケープゴートを使って、裕福な生活を送っている人を攻撃しているのだ。
余談だが、藤子・f・不二雄の『定年退食』という短編に、恐ろしい未来が描かれている。
この話は、未来の日本を舞台にしたもので、「一次定年」と「二次定年」という制度が導入されている。
一次定年は普通の定年と同じで、それを境に年金がもらえるようになる年齢だ。特殊なのは二次定年で、これを過ぎると年金がもらえなくなるだけでなく、一切の社会保障が打ち切られる。
つまり、二次定年を迎えた人は、自らの手で生きていくしかないのだ。そんな制度を採り入れなければならないほど切羽詰まった社会で、何の助けも受けられないというのは、実質的な死刑宣告だ。
さらにこれは、社会保障費を削減するという、リベラリストの主張にもつながる。殺すわけではないのだから、非人道的ではないという言い逃れもできるので、集団自決より納得してもらいやすいという利点もある。
老人を殺すという突拍子もない主張より、こちらのほうがより現実的で、恐怖を感じないだろうか。
ほとんど全ての人はいずれ老人になるので、軽はずみな考えは自らの首を絞めるということを、肝に銘じておくべきだ。
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