「良い聞き手になる」という戦略 虚無主義から脱却するために
少し前の話にはなるが、山田礼司と岡田斗司夫が数年ぶりの対談生放送を行っていた。
詳しい内容は本編を見ていただくとして、個人的に印象だった部分を中心にまとめると、
「僕たちは生まれたときから天国にいる。それは一見幸せなことに思えるが、開拓できるフロンティアが無くなってしまったことで、今の若者は生きる気力を失っている。さらに、手軽に自分自身のことを発信できるようになったSNSも、フォロワーや登録者といった数字で自分の価値がわかってしまうという特徴があり、結果的に窮屈さを感じさせる媒体となっている。」
といった感じになる。
雑ではあるが、太字で書いた2つの問題が、タイトルにある希死念慮、反出生主義、ドゥーマーといった思想が誕生した背景にある、というのが私なりのまとめだ。
この問題はかなり深刻であり、特にネットポルノの登場は、過激な性行為を簡単に見ることのできる環境を作り出し、一種の薬剤耐性に似た現象(過剰な性行為に慣れてしまうことで、性的な満足を得ることができなくなる)を生み出した。
昔であれば、アダルトな雑誌を探したり、モザイクで隠された部分に思いを馳せることで、ある意味で適度なフラストレーションを保つことができたかもしれない。
だが、現代では「これ以上過激なものはどこを探しても見つからない」という、どうしようもない無力感に苛まれてしまう事態となっている。
残念ながら、このような問題に対する解決策は、動画内ではあまり述べられていなかった。
そこで今回は、私が実践している解決策を話していきたいと思う。
「良い聞き手」とは
善良なファンになる
その解決策は、記事タイトルにもある通り、「良い聞き手になること」だ。
良い聞き手になるというのは、「模範的な消費者を演じる」と言い換えることもできる。
もっと大胆に言い換えてしまえば、「あらゆるコンテンツに対して”善良なファン”という架空の人格を想定し、それに近づこうと努力する」と言うこともできる。
例として、あるVTuberのファンになったと想定してみよう。
そのVTuberにガチ恋(本気で好きになること)し、破産するほどのスーパーチャットを送るのは、良いカモではあるかもしれないが、善良なファンとはいえない。
逆に、「どうせ中身はただの人間だもんね」「お金もらえるからやってるだけでしょ」といったような、世界観を壊してしまうコメントをするのも善良なファンの行動ではない。
そのVTuberと適切な(精神的)距離を保ち、コンプライアンスや配信のノリに沿ったコメントをするのが、善良なファンの姿と言えるだろう。
善良なファンにもいくつか種類があるので、コメントせずただ配信を見るだけ(ROM勢)でも良いし、無理にスーパーチャットを送ったり、グッズを買ったりする必要もない。
このような想定と実践をあらゆるコンテンツに対して行うというのが、私が提唱する戦略である。
なぜ「聞き手」なのか
ただ、この説明だとなぜ私がファンではなく「聞き手」という言葉を用いたのかわからないだろう。
この考えは元々、憧れる人物の話を理解するために、基礎的なところやわからないところを理解しよう、と思い立ったところから生まれた。
好きなロックミュージシャンがいれば、その人のルーツになっているアーティストの音楽を聴いたり、ロック史を学んだりするのがそれに当たる。
好きな小説家がいれば、その人が読んでいる本を読んだり、小説内で引用されている文章の出どころを調べたりすることが、それに当たる。
大事なのは、憧れた人物を起点として新たなことを学び、もう一度その人物に戻る、というサイクルを繰り返すことだ。
単にその人が作った音楽や小説を読むだけでは、私が定義する「良い聞き手」になることはできない。憧れの人物から始めて、自分自身を拡張していくことが重要となってくる。
もし、憧れのミュージシャンにインタビューすることになったと仮定すると、その人の音楽的なルーツや音楽の基礎的な部分を知っていれば、より正確で詳しい記事が書けることは容易に想像できるだろう。
このインタビュアーのような人物を目指しているので、ファンではなく「聞き手」という言葉を用いたのだ。イメージとしては、ファンより深い理解のレベルに達することを目標としている。
こうした過程で得た学びは、それを使ってお金を稼いだり、何かを発信したりするためのものではない。目指すのは、インタビュアーであって評論家ではないからだ。
仏教的な要素
こんなことを言うと、真面目に勉強している人に怒られそうだが、これは仏教における「無我」の思想に近い。
憧れの人物がおり、その人を理解するためだけに勉強するという状況では、「私」というものが消滅している。
そのため、利益やコスパといった自分本位なことを忘れて、純粋に知識や概念同士のつながりに目を向けることができる。
まあ、少し大げさな表現だったかもしれないが、「直接的な利益とは無関係に知識を追い求める」というのは、ニヒリズム的なマインドから脱却するための有効な手段である。
発信する際の注意点
最初の方でも少し述べたが、この戦略で大事なのは「知識をつけることで良き理解者となること」と、「そうした理解者を”演じる”」ことだ。
憧れの人物と同じだけの知識がついたり(もしくは知識がついたと錯覚したり)、ある程度全体像を理解できるようになると、どうしても自我を出して語りたくなってしまう。
しかし、こうしたことは注意して行わなければならない。
基本的に、むき出しの自我というのは脆いものだ。
自分の考えを否定されると、それが知識不足によるものであったとしても、自分自身を否定されたかのように感じてしまう。
そのため、自分の意見を述べる場合も、学習者であれば模範的な学習者、ファンであれば模範的なファンの人格を想定し、その人が述べても違和感のない発言や書き込みをするべきである。
ありていに言えば、自分の意見と自分自身との距離を取りなさい、ということだ。
問題の解決
フロンティアの再発掘
さて、ここで本題に戻って、この考え方がなぜ解決策となるかについて述べよう。
最初の問題は、「開拓できるフロンティアが無くなってしまった」ことだった。
すでに全てのことがやり尽くされており、自分がやるべきことは残っていないと感じるので、ある種のニヒリズムに陥ってしまうということだ。
だが、良い聞き手になることを目指せば、やるべきことはすでに用意されている(基礎的なことや専門的なことを学ぶ)ので、やるべきことが何か悩む必要はない。
さらに、音楽を聴くにしても、VTuberを見るにしても、体系的な知識を持っている人は少ないので、そうしたことを学べば、ささやかな優越感を得ることができる(もちろん、それを表に出すことには極めて慎重になるべきだ)。
また、この問題は「全てのことがやり尽くされているように”感じる”」ことが原因となっている。
しかし、例え全てのものが書籍やインターネット上で言語化されているとしても、自分がその全てを知っているわけではない。
そのため、そうした知識を発見していくことは、自分自身にとっては新しいことを生み出すのと同じ意味がある。
さらに、通常だったら苦労して見つけなければいけない知識を、誰かが代わりに見つけてくれているのだから、これを使わない手はないだろう。
まとめると、良い聞き手になることを目指すことで、やるべきことが自然と生まれ、自分自身にとってのフロンティアを作り出すことができるのだ。
競争からの脱却
次の、「フォロワーや登録者といった数字で自分の価値がわかってしまう」という問題についても考えてみよう。
良い聞き手になるという戦略は、そもそもフォロワーや登録者の獲得競争から抜け出しているので、「フォロワーの数=その人の価値」という図式に当てはまらない(厳密には、全ての発信者がそうなのだが)。
さらに、仮に好きなものについてSNS等で発信するとしても、「良きファンである仮想の人格」を介して行うため、評価されないことが無力感に繋がりづらくなる。そうした発信は、あくまでも「良いファンになる」という、個人で完結した活動だからだ。
評価が少ないことに落ち込むのではなく、むしろ数人であっても応援や評価をしてくれる人がいることを、素直に喜ぶことができるようになるだろう。
無意味な比較を行わないことで、そうした純粋な幸せも得ることができるようになるのは、大きな利点だ。
もちろん、そもそも発信自体を行わなくても良い。1人で静かに研究しても良いし、信頼できる身近な人にだけ話すというのでもいいだろう。
一番大事なのは、自分が満足できるかどうかである。
打ち込めることが見つからない場合
頑張って自分を騙す
ここまで色々と述べてきたが、そもそも労力を割きたいと思うものが見つからないと、今までの議論は全て無駄となってしまう。
最初から、打ち込めるものが見つかっている人はそれで良いが、そうしたものが見つかっていない人は、それを見つけることから始めなければならない。
これに関しては、自分の心が少しでも向くものを見つけ、無理のない範囲でそれが一番好きなものだと自分を騙すしかない。
好きなものがあったとしても、それについて体系的な知識を得ようとすると、辛いと感じる場面に出会うことがある。
ここまで来ると修行みたいになってしまうが、多少は試練だと思って取り組まなければならないだろう。
ニヒリズムから脱するためには、ある程度の忍耐や不条理が必要となってくる。
どれだけ負荷をかけるかはその人の自由だが、その過程すら楽しめるようになれば、良い聞き手としては一流になれる。
これからも良い聞き手を目指して、精進していきたい。
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