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死にゆくときに人が望むこと

この数日の出来事を、何か言葉に残しておかないとおかしくなってしまいそうな気がした。

今年の幕開けは、あまりにもハードモードすぎた。
そもそも去年の年末も人の生死を預かっている状態で、すでにハードモードだったのだけれど、それ以上のことが新年早々起こるとは思いもしなかった。

新年あけまして1月1日の朝、年明けそばを食べた私は、自室で楽器を弾いていた(気がする。分からない記憶が曖昧である。)。部屋に入ってきた母から、祖母①が危篤状態だということ、祖父も同様の症状で入院していること、唯一頼れる親戚は一家でインフルエンザにかかってしまっていると聞いた。

諸事情により家族全員で移動することは出来なかった。一人で故郷に向かうために準備をしていた父と共に、私も向かうことにした。

これからどんなことが待っているのか分からない。いつ戻ってくることが出来るのだろうか。楽器は置いてきた。ほぼ触らない日はないこの子と次に遊べるのはいつなんだろうか。しばらくは弾けないだろうなとあきらめていた。そういえば今週末はオーケストラの本番だった。私、出られるのかな。

父の運転する車に揺られて、高速から見える景色に目を向ける。幼い頃、祖父母①の家に向かうときに何度も見た景色。中学校に上がってからは、祖父母①のところへ会いにはほとんど行かなくなってしまった。今向かっている祖父母①とも、最後に会ったのは1年前のお正月だが、その前は10年前、小学生の頃である。決して「仲睦まじい家族」とは言い難い関係だった。

高速を降り、市街地を走る。本当に何もない。ただひたすらに山と畑が広がっている。祖母①の入院する病院についた。意を決して入る。

ナースステーションで祖母①の名前を伝え、面会記入用紙に名前を記す。フェイスカバー付きのマスクをもらった。すでにつけているマスクの上からつける。解剖実習の頃の、二重マスクの妙な息苦しさを思い出す。

本来なら感染症対策のため面会には制限があり、会うことは出来ないはずである。しかし、危篤状態であったため会うことが出来た。

午前中時点では意識を失っており、今晩が山場だと言われていた。しかし、会いに行った際は意識が戻っており、祖母①は私が来たことをしっかりと認識していた。

ずっと手を握っていた。おばあちゃん。あんなにパワフルだった人が、こんなに小さくか弱くなってしまうのかと感じた。気管挿管をしているため話すことは出来ない。けれども、何かを伝えようと必死に口を動かしていた。呼びかけに対し、首を振って意思表示を示していた。極限状態においても、自己を強く持つ人であった。もしかしたら自分の体力の強さは、祖母①由来のものなのかもしれないなどと考えた。

祖父は祖母①の病院から車で5分くらいのところにある、別の病院に入院していた。お正月休みを理由に面会を断られ、会うことは出来なった。ただ、会わせてもらえないということは恐らく危篤ではないということである。なんとも複雑な思いになる。

その日の夜はもう一方の祖母②の家に泊まった。こちらの祖母②も、怪我で2カ月ほど入院しており、先週退院したばかりであった。足が不自由で日々の生活に苦労しており、自力では買い物に行くのも非常に難しい。また、認知症が進行しており、日常生活にもそれなりに影響を及ぼしている印象を受けた。

祖母②の希望でその晩は二人でお寿司を食べ、こたつに入りテレビを見ていた。テレビ番組はどのチャンネルにしても、北陸の大地震のことを放映していた。お風呂に入ろうとしたが、歯ブラシをもってくるのを忘れてしまったことに気が付いた。祖母②に買ってくるとのことを伝え、コートを着て外へ出た。近くのコンビニまで歩いて行った。空を見上げると、信じられないくらいに満天の星空はとてもきれいであった。風は刺さるように冷たかった。今後の日々の生活と、自分の思い描いていたのとは何か異なる状態へと変わってしまった祖母②に対して、ぼんやりとした不安を抱いていた。そんな中で夜空に広がっていたあの満天の星空は、いったい何だったんだろう。

歯ブラシを選んだあと、明日の朝ごはんが何もないことに気が付いた。祖母②の冷蔵庫には何も物がなく、ガスは火傷などの防止のためガス栓が抜かれており使えない。バターロールと電子レンジで温めるタイプのスープ、蒸し鶏とブロッコリーのおかずを2人分買い、コンビニを出た。

祖母②は何度も、「何もしてやれなくてごめんね。」と謝っていた。おばあちゃん、そんな謝るようなことじゃないよ、全然気にしないでね、と返していたが、その一方で一生の最期の過ごし方について考えていた。

祖母②は言った。昔はよく会いたくて、電車乗り継いでよく会いに行ったよね、今は足が不自由だしもうそんな体力ないけどね、と。そのとき、これまで自分は「老後」というものを非常に狭義的にしかとらえていなかったと感じた。すなわち、身体の自由の利く余暇のこととしかとらえていなかったが、人間は老いていくいきものであるから、身体の自由の利かない余暇も存在する。今日の授業でいうところの、「健康寿命と平均寿命のギャップ」にあたるところだが、多かれ少なかれいずれこの期間を過ごすことになることも頭の片隅にとどめておく必要がある。

「今日はどこで寝るの?」祖母②が尋ねる。5回目である。「んー、つきあたりの部屋にベッドがあったから、そこで寝ようかな。」ついに私はこう答えるのをやめた。「そうだね、おばあちゃんの部屋が暖かいし、ここのこたつで寝ようかな。」

祖母②のところのこたつは少し特殊である。膝が悪く床に座ることのできない祖母②のために、ソファーに座った状態でこたつに入ることが出来るような、机の脚の長いタイプのものである。ただこのことで、こたつで寝ることの難易度がかなり上がる。ソファーに腕枕をして床にしゃがんだり、床の上で横になったり、何度か体勢を変えて少し休んだ。いずれ当直するようになったらこんな感じなのかな、とも思った。

翌朝、昨日買っておいたパンやスープを温めて食べた。支度をする私をベッドの中から見守る祖母②。父に連絡をし、病院の最寄り駅で待ち合わせすることにした。「またね。泊めてくれてありがとう。お元気でいてね。」そう伝え出発した。

清々しい冬晴れの朝だった。人は一人も歩いていない。一本道の古い道路。周りは古い家と学校、畑しかない。ここが母の育った地域か。電車の時刻を気にしつつ、目の前の景色に思いを馳せた。



駅に着いた。無人駅での乗車は初めてである。PASMOはタッチできたものの残高不足。でもチャージする機械がない。乗車証明書の発券機のボタンを押す。時間まで椅子に座っていた。景色の写真を母に送ると、ホームが逆だよと言われた。しかし気が付いた時にはもう遅かった。反対側のホームの電車のドアが閉まる。
次の電車を調べ、まあこのくらいならいいかと思い反対側のホームで待った。父に伝えると電話が来て、迎えに行こうかと言われたが、ううん、電車乗ってみたいからいいよと伝え、ホームの椅子に座る。そして電車が来た。今度はドアが開かない。周りの人は何事もなく電車に乗っている。なぜなのか。私は2本も電車を見送るのか。一番端のドアが開いていたので慌ててそちらに向かって走る。その時気が付いた。押しボタン式だ。ギリギリのところで電車に飛び乗った。危なかった。

病院の最寄り駅は県庁所在地である。県内では最大規模の駅なのだろうが、地方都市の小さな駅である。道の先に父の姿を見つけ、向かった。

父の車に乗り、病院へ向かう。本日も祖父とは面会できないので祖母①の病院へ行った。ついたとき、祖母①は鎮静剤で寝かせられていた。気管挿管をしているため覚醒状態にいるのは苦しいはずだし、体力を考えてもよい状態とは言えない。それにもかかわらず鎮静剤で寝かせていないとたいていの場合は起きていて、挿管を外せと暴れてしまうそう。祖母①らしいと思ってしまった。

寝ているならいてもしょうがないね。と父はその後私を駅へと送ってくれることになった。その前にもう一方の祖母②のために電気ケトルと食品を購入し、届けに行くことにした。父はケチな人間だが、こういうことには惜しみなくお金を使う人間である。母のことが羨ましくなった。

最後に祖母②宅によると、昨日はいなかったおばが帰って来ていた。祖母②が洗濯物と混同して紙おむつを洗濯機に入れてしまうので、洗濯機が詰まってしまい使えなくなっていた。うんざりして新しい洗濯機を買いに行こうとしていたおばだが、事情を聞いた父が詰まりを直し、使えるようになった。おばは祖母②に対して厳しい態度をとる。洗濯機の件でも、祖母②はおばに叩かれたとのことだった。だから祖母②は恐れてあまり会話をしたがらないし、そうすると認知症はさらに進行する。どうしたらよいのだろうか。

祖母②とおばに別れを告げ、父が駅まで送ってくれた。鈍行列車で私は一足早く帰ることとなった。電車に乗る所まで父が見届けてくれた。帰りの電車ではここの景色がきれいだよ、と母から教えてもらったが、ぐっすり眠ってしまい目が覚めた時には終点だった。

乗換えをし、電車に揺られた。周りには登山客と思わしきお年寄りの方がたくさんいた。彼らがこうした自由な余暇を過ごすことができるのはあとどれくらいなのだろう。

病院でたくさんの機器につながれた祖母①は、私が最も望まない最期の在り方を迎えようとしている。今の祖母①が、そして周りの家族が一番望んでいることは何だろうか。