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ひとり歩きする「評価経済社会」というワードから考えるここ数年のはなし 6/22

ビジネス書の宗教性について、気が付いたら何も書かないままに週をまたぎました。だれだよこんなの書くって言ったの。はい! わたくし、久保内自身であります!(敬礼) なんか、あれですね、宗教性とか思想とかになるとあんまり適当にこんなふうに書きなぐるのも何だな? という職業倫理的なものが顔を出しますね。

なので、今回はちょうど「評価経済社会という考え方ってどうよ」というちょうどいい具合に適当に考えていいネタを投稿していただいたので、そちらについてつらつらと書いていきたいと思います。

「評価経済社会」という言葉がどのように流通しているかを考えることのほうが重要

 まず前提として、自分は岡田斗司夫の評価経済社会を読んだことはありません。が、「ぼくらの洗脳社会」のリメイクだと言っていたことは小耳にはさんでおりまして、「そっちなら読んでる!」という程度のフワッとした理解で語ることになります。なぜ、しっかりとした理解をしようとしないのか? という問いには、「そういう本でも概念でもないという確信があるから」と返答しておきます。

 だから、この文章は「評価経済社会という概念は正しいのかどうか」ではなく、すごく大雑把な評価経済社会の大枠を久保内はこういうものだと考えているよと軽く書いて、次に「評価経済社会」という言葉が現在流通している界隈での使われ方や、その界隈で流通している行動様式・しぐさを見ることで、どのような需要のされ方をしているかと考えてみようと思う。そうすることで、数年後の近い将来、どんなふうにその界隈の人が動くのか。それによって我々(時間が許せば細分化するね)がどんな影響を受けうるのかあたりがぼんやり見えるかなとおもっている。

 そうすることで、岡田斗司夫が面白い話として与太ったSF小話フレームワークミームが流通過程でどんな命を授かったかという実質の部分も見えてくるのではないでしょうか。

適当かつ身も蓋もない「評価経済社会」の概略

 つらつらと、第一次産業、第二次産業、第三次産業の歴史の変化とかを書いてもいいのだけど、まずは「評価経済社会ってあれでしょ? Twitterのフォロワーが多いほうがいい、Youtubeの大手がクラウドファウンディングで金集めてるヤツでしょ?」という身もふたもない理解(正直それでいいと思う)をしている方は、

概要
コンピュータネットワークの発達により、全ての人々が双方向の影響を受ける/与える状態に近づいてきた。この時、人々は必ずしも多くの貨幣の獲得を第一目的として行動しない。むしろ、多くの人々から多くの評価を獲得しようとする。また、多く評価された者は第三者を評価することで「評価」を還流しているといえる。 貨幣が商品やサービスの交換を媒介するのと同じように、評価が尊敬や賞賛といった影響の交換を媒介するという考え方はこの現象を上手く説明できる。評論家の岡田斗司夫はこれを「評価経済」と呼んだ。 人々のニーズをつかみ、最も効率よくそれを生産して販売することにより、多くの富を得られるのが、貨幣経済競争社会である。これに対し、人々の不安や不満をつかみ、最も効率よくそれを解消する方法を提案することによって、多くの人に影響を与え、尊敬と賞賛を得られるのが、評価経済競争社会となる。この時、得られる利益は貨幣的利潤ではなく評価利潤、つまりイメージとなる[1]。 貨幣経済と評価経済は両立しうる。貨幣的利潤と評価利潤を同時に獲得することもあれば、どちらかしか獲得できないこともある。ただし岡田によれば、ネットの発達と共に貨幣経済はだんだんと縮小していき、評価経済によるやりとりが主流になるという。 評価経済社会は岡田が1995年に提唱した「洗脳社会」という考え方が元になっている。 (Weblio辞書 評価経済社会の概要より引用 https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%A9%95%E4%BE%A1%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E8%A9%95%E4%BE%A1%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81 )

 でも読んでくれ。俺も真面目に解説するほどの時間はない。

 もっと適当に自分の理解を要約すると、農業がメインの時代は土地を所有してるやつがエラかった、産業革命が来ると、資本(金)を持ってるやつがエラくなった。じゃあ、情報革命が起きた現在、どんな資産を持ってるやつがエラくなるの? それは、今ある言葉でいうと「信用」(ウッフィー)だ! という話。

 下敷きになっているのは、トフラーの「第三の波」という、80年代後半だか、90年代初頭だかに日本で流行った本。当時はなんか新機軸のニューエイジ本っぽいなこれ? という受容がされてた気がする。こっちは「情報革命ってのが来たぜ!」ってのを書いた未来学者の予想図だったんだけど、「じゃあその中での行動様式ってなによ?」と岡田斗司夫が敷衍したのが評価経済社会ってことになる。

 その中のキモである「信用」が貨幣の代わりに流通するってのは、コリィ・ドクトロウの「マジック・キングダムで落ちぶれて」で使われた『やりがいや賞賛を貨幣化』した「ウッフィー」という“信用貨幣”。もっと身もふたもなく言うと、その概念を使ってツイッターのマーケティングの可能性を書いたタラ=ハントによる「ツイッターノミクス」からのパ…引よ…インスパイアだっていうのが久保内による理解だ。

 で、この「評価経済社会」って言葉を聞いて自分が思ったのは「ああ、岡田斗司夫は小松左京が好きなんだなあ……。なりたいんだなあ……。でも自前だと厳しいから未来学のタネ本から未来学書くんだなあ」ということ。大阪万博のあたりにですね、小松左京や梅棹忠夫などの関西文化人が、思考実験としての大阪独立論だとか、科学万能主義の終焉についてとかを対談したりして未来を予想する「未来学」ってのが流行ったんですよ。梅棹忠夫先生のことが大好きだから覚えてるんですけど。

 そのとき一人のSF少年で、その後小松左京のまわりを取り巻いてあーだこーだ、あれがこれでの存在感を示したらしい岡田斗司夫少年のワクワク原体験がそのへんだったんだろうなって。まぁいいや。でも、関西弁で風呂敷を広げてそれなりに人をワクワクさせるムーブができてるんだから大したもんですよ。皮肉めいて書いてるけど、根本のそういう素朴なSF大好き感は大好きですよ。大学時代にある程度ワクワクしながら「ぼくらの洗脳社会」を購入したことも認めます

 何の話してたんですっけ。まぁいいか岡田斗司夫については。メモに体重を書いていくだけの行為を「レコーディングダイエット」と命名してビジネスしようとしてた時よりずっと内実はあると思う。

 ああっ、もう25分も経ってしまった。まあ、そんなこんなで(ひどい)、情報革命後に新たに価値を持って流通するのは「信用」で、前時代のエンジン「金」よりも信用のほうが価値が出る理由としては、信用からは比較的簡単に金を得ることができるが、金があっても信用を得ることは難しいから。だから金より信用のほうが価値があり、憧れられる資格があり、だからこそこれからの人間の行動の指針になりうるのだ。ってことだと思う。

で、「評価経済社会」という言葉は今どんな風に使われ・受容されているか

 これを真に受けて、もしくは真に受けたふりをして、アレなインフルエンサーが「フォロワー数も稼げない人の批判は聞く価値はない。批判をする暇があったら、自分のフォロワーを増やして信用を積み重ねる努力をすべき。なのにしてないあいつらは負け組(意訳)」と言っているというのが現在のところの「評価経済社会」という言葉の使われ方だと思う。

 この言い訳を岡田斗司夫が見た時、どんな顔したんだろうね……? バカにそんな乗っかり方されるとは思ってなかったんじゃないかなさすがに。しかし、そう理解され、流通しているのにはまっとうな理由があると自分は考える。

 ここからは、「第三の波」を敷衍して、その中での人の行動様式の変化を予想した「評価経済社会」が書かれた方法をパクってみよう。

 「評価経済社会」を敷衍し、現在の社会状況においてどのような人物が「信用ににたなにか」というまだ絵に描いた餅を効率的に使って金を得られるかを考えてみるというワケだ。

第三次産業の勝者は誰だ?

 農業が主体の時代には、土地を制する者が覇権を握ることができた。そして、産業革命では金を制する者が覇権を握った。では情報革命では? という問いの答えは「あ、情報っス」ではない。情報は、産業革命によって効率化されまくって100均に並ぶようになった商品のようなもの。一番流通するものは一番価値がなくなっていく。ここまではたぶん「評価経済社会」と同じだと思う。

 じゃあ勝者はだれだ? すでに答えは出ている。GAFAだ断じて「これからはYoutubeだ」と言っているインフルエンサーではない。

 ここから「評価経済社会」の話ではなく久保内の私見になる。では、なぜインフルエンサーが日本の企業群に比べて発信力があり元気よく見えるのか。それは、企業より個人のほうが信用力なり評価経済のワークフレームで優位にあるからではない

 世界を席巻するGAFAのプラットホーム上で、企業がその実質下請けとしてコンプライアンスなどの規制のなか活動するのに比べて、個人だと低コストで運用できて採算分岐点が低く、したがって「儲かる」の実感のハードルも低いからだ。

 インフルエンサーなら月収150万円も可能で勝ち組! というけれど、会社員は35万円の月給をもらうために同等以上の利益を会社にもたらす必要があるからだ。企業から見ると、プロモーション活動をするにあたって、その分費用が安く済むから費用対効果が高く見えるから。これに尽きる。

 規制により、「記事広告」とタイトルに記載して1万PVで130万円払うなら、誤字脱字だらけ工程の最後まで管理ができなくても50万円で5万PV稼いでくれる方が結果はよくなる。

 「評価経済社会」を読んでもいないのにドヤ顔でこんだけ文章の量を見直しもせず30分そこそこで書いても許容される自由度が、まがいなりにもマスコミの一端であるニュースサイトに寄稿するときと比べてより低コストで刺激的なのは必然というワケ(だから下調べもしていないこの文章も許容されてほしい)

 2020年現在のインフルエンサーの隆盛はの大きな理由の一つは、規制のある企業/規制のない個人という不均衡。これがインフルエンサーの儲けの源泉と言えると考えられる。

 情報革命で第二次産業は殺されたのか? 武器を持ったのは誰だ?

 書き始めて45分が過ぎた。畜生。だから結論に向けてスピードを上げたい。

 フランス革命によって、フランス国王は断頭台の露に消えた。では、情報革命によって、産業革命は首を切られたのか?

 答えはもちろん否。第二次産業はもちろん、第一次産業だって健在だし、この二つの分野の産業がとん挫したときは自動的に第三次産業である情報流通・サービス業も死に絶える。なぜなら、情報だけでは飯にも服にも鉄にもならないからだ。

 だから、現在でも土地。不動産はなんだかんだ言って安定資産のキングであり続けているし、金という資本は第三次産業の中ですら血液として巡っている。つまり、仮に「評価経済社会のいう『信用』」が貨幣的な価値を持つとしても、それが価値を持つにはいつだって不動産と金という裏書きが必要になる。

 「ベーシックインカム」が、「評価経済社会」が普及する前提として語られがちなのも、消費者が情報を消費するのにも情報提供者がコンテンツを流通さえるのにも、過不足ない食物と、耐久消費財が必要であることの証だろう。つまり、「信用」は、人々のあこがれにはなるが、それ自体がキングになることは、光合成を人間が実装しない限り来ることが考えずらい。

 (余談)ちなみに、ベーシックインカム後の世界で主人公が暇つぶしにバーテンをしたりしつつ……という短編が筒井康隆にあったのだが、作品名は忘れた。たぶん「評価経済社会」のアイデアの一つだと思うから気になった人は探してみて。あと、筒井康隆なら、タレント候補が議員になりまくっていく社会を皮肉に書いた短編も現在の社会を考えるにいいと思う(この評価経済社会を考えるうえでも)。もちろんタイトルは忘れた。筒井漫画? あたりに収録されていたか?

 資本を徴収し再分配する機能を持つ国家・政府というものの制度を超えて、利益率で圧倒するGAFAでも、この問題は克服できていない。毎年その効率的なシステムで多くの利便性と膨大な失業者を生む彼らは、膨大な失業者を生みながら彼らから利益をあげなければならない。そのため、amazonのジェフ・ベゾスはベーシックインカムに賛成の立場だ。自分たちの利益は、失業者に還流しないため、永続的に吸い上げる資本としてベーシックインカムを必要としている。究極のところ、情報産業は、農業・産業に寄りかからざるを得ないのだ。

 産業革命は、労働者に文字と家電を与えた。では、情報革命は?

 情報産業は究極のところ、第一次産業・第二次産業に寄りかからざるを得ない。この構図はことわざにある「衣食住足りて礼節を知る」あたりで説明できちゃうんじゃないの? という疑念はわいてくる。

 食うに困らなくなった二代目社長のボンボンが、周りの評判と文化活動に血道をあげるのとどう違うの? という疑問に、有効な反論は用意されているのだろうか?

 自分にはある。二代目のボンボンには金はあるけど、インフルエンサー志望者には金がないってことだ。だから礼節は知らん。(ひどい)

 この言いざまはひどいけれどまるで嘘ってわけでもないと思っている。産業革命は労働者に識字能力と家電・車を買い与えることに成功した。しかし、産業革命を経ても労働者のほとんどは車がなぜ動くのかは理解しないままだった。「理解しなくても使える」この状態を生むのが、高度化した社会の特徴とでも言えそうだ。電話がなぜ離れた人と話せるのかは分からないが会話はできる。テレビがなぜ映っているのかわからないが見ることができる。

 おなじように情報革命では、ペンとメガホンを与えた。当然、与えられた者たちはそのメカニズムや危険性は知らない。でも使える。また、彼らの持つ新しい剣であるペン・TwitterやYoutubeへの適切な受け取り方も同じく。そもそも、フェイクニュースという概念の登場で、「正しい情報とは何か・判断能力とは何か」について「近代個人の自立した判断能力」というタテマエに重大な疑義を持たざるを得ない今、「正しい」よりもエモーショナルであることが情報の流通を助けることは自明だ。

 勢い、個人がSNSやYoutubeで発信力を持つために最適な行動の枠組みは、批判を織り込んで、共感・挑発を主たる武器にするということになる。これは、下品なものでは「1000万円の車を買ってみた!」なYoutube節になるだろうし、意識高く上品なところではNoteでよくみられる「共感される文章を書くためのコツ」とでもなるだろう。

 そしてめでたく「評価経済社会」という言葉は、共感・挑発を使い分けSNSをバズらせるインフルエンサーに、「フォロワー数は信用の証」という免罪符を与え、さらにフォロワーに対して営業をかけて換金する行為に大文字の「経済」という権威性を担保する福音になった。根拠が岡田斗司夫というのはどうなのかという気はしなくもないが、岡田斗司夫もビックリしたと思うから(二度目)。ここで自分が言いたいのは、「評価経済社会」という枠組みで考えると、TwitterやYoutubeでオラオラ営業をかける行儀の悪いインフルエンサーの登場は必然であること。で、現在の「評価経済社会」という言葉が免罪符のように流通するのも理由のないものではないということだ。

じゃあ個人の発信力の時代みたいなものはこれからどうなるの?

 やっと最後の小見出しにたどり着いた。1時間10分が経過した。悔しい。筆者はⅠインフルエンサーワナビーとして読者諸兄に投げ銭を要求する。

 まあ「評価経済社会」という言葉について自分がどう考えているか、そして現在の主張の中身とはちょっと離れたインフルエンサーでの中で流通する「評価経済社会」の開き直った用法について、理由のないものではないということは語り終わったように思う。

 ここからは、着地点を探るための余談になる。

 この「個人の発信力」は、功罪あわせていつまで有効性があるのだろうか? についてサラッと予測を書いて終わらせることにするか。

 じつは、結構続くのではないかと自分は見ている。

 理由は、たぶんさっき書いたと思うけど個人のほうが低コストで許され度が高いというのもある。また、ニュースサイトなどのWebテキスト分野の苦戦が結構ヤバいってこと。この話は書くとまた長くなりそうなんで割愛するけど、要は人間は企業のパンフよりも人間の顔のほうに愛着を持ちやすいということだ。

 だから、ほとんどの有名企業もCMには芸能人を起用してメッセージを伝える。有名人を出さないのは無印良品やアップルなど、かなり根性入ったブランディングを展開するところだけだ。それほどまでに法人に対して愛着や忠誠度を抱かせるのは難しい。専門誌のプレ芸能人的な(スタパ齋藤とか!)スタンスなどでYoutuberやインフルエンサーの登場は続くだろう。

 一方で、「発信力」については、ここまで企業の規制のある発信と個人の自由気ままな発信が、効果測定で同じ土俵で戦わせられながらも正確性では個人が免罪される傾向は放置され続けるかというと、疑問が残る。

 「業」としてインフルエンサー・広告代理業を行う個人は、このガイドラインを守るべしという規制は、近い将来大きな議題として挙がってくるのではないか。さらに、オンラインサロンなどについても内部で顧客情報を収集し放題な実態についても問題化される可能性はある。個人でもある規模・ある期間以上、広告収入・広告代理・個人情報の管理をする場合、なにがしかの規制、罰則などが論議されることになるだろうと考える。

 まあ、有名インフルエンサーは法人化しているだろうから、法人の営利目的での配信に対して規模の大小にかかわらずなにがしかの規制をかけていくっていうのが現実的な線かもしれない。

 また、悪質なインフルエンサーを起用した責任などが、SNSの集団ヒステリーで巻き起こり不買運動が巻き起こり、大手事務所がハンドリングできる(と期待だけはできる)インフルエンサーに首輪付きでしか発注しないという発注マナーができるという将来像も十分あり得るだろう。

 やらかした芸能人やYoutuberが、なんか互助組織的なものを作ってお互いに許し合い、「俺らも大変な時もあったし炎上もしたけど、頑張ってれば視聴者は認めてくれる」という雑な島田紳助節・風スローダウンな人生訓に対して有効なのは、結局のところ、倫理的な批判ではない。チャンネルBANであり、広告はく奪くらいしか手がないからね……。ラファエルだってチャンネルBANされた後は水耕栽培の勧誘の片棒は担いでない。

 いずれにしても、「評価経済社会」という新時代の護符を胸に、インターネットという荒波に飛び込むインフルエンサーさんたちの勢いは当分さらに影響力を増していくだろう。

 というわけで今週は、おっと今日はこの辺で。疲れた。

アレがアレならアレな久保内のアレにアレしといて!

あとtwitterとかもアレしてくれると嬉しいし、投げ銭はジョーク半分だから、してくれても一向にかまわないよ。

 








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