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#村上春樹
きみはただ、ひとつの場所に留まっていたくなくて歩き続けているだけだ。
こんなとき、どう振る舞えばいいのだろう?
この世界は、ぼくがまだ経験したことのないものごとで満ちている。
だからぼくはそんな普段とは異なるきみを前にして、途方に暮れてしまう。11-72
どうかしたの?とぼくはようやく声に出して言う。なにかあったの?
きみは無言のまま首を横に振る。
小さな女の子たちはまだブランコを揺らしている。
やがてきみはぼくの手をはなし、ひとこともなくベンチから立ち上がる。
ぼくらは公園を出て、街の通りを歩き続ける。11-71
約束の時刻より四十分遅れてきみは姿を見せる。
たぶんここまで走ってきたのだろう。
きみは丸襟の白いブラウスを着ている。
きみがぼくの想像したのとほとんど同じ服装をしていることにぼくは驚き、言葉を失ってしまう。
…、…、日曜日の公園のベンチでまぶしく美しく見える。11-70
ぼくらは地下鉄の駅近くの、小さな公園で待ち合わせている。
しかし約束の時刻になってもきみは現れない。
実際にきみの隣にいて、…、手を握ったり、物陰でこっそり口づけしたりすることの方がずっと良い。
でも、約束の時刻から三十分経過しても、まだきみは姿を見せない。11-69
きみの一対の胸の膨らみ…、きみのスカートの中…考える。
ぼくとしては…本当に考えたくないのだ。
もう一度、雨降りと海のことを頭に思い浮かべようとする。
でも海辺のイメージはうまく脳裏に蘇ってこない。
ぼくの意志とぼくの性欲は、…、別々の方向に進んでいくみたいだ。11-68
海というものが永劫に変化することのない存在であるからだろう。
ぼくがきみとの間の心の絆を…、…永劫的なものにしたい…、…雨が静かに降りしきる海の光景になる。
ぼくときみとは浜辺に座って、そんな海と雨を見つめている。
永劫を求めない愛にどれほどの値打ちがあるだろう?11-67
電車に乗ってきみの住む街に、きみに会いに行く。
日曜日の朝の電車は乗客がまばらだ、…、永続的なという言葉について考えを巡らせる。
永続的という言葉から思い浮かべられるのは、海に雨が降っている光景くらいだ。
ぼくは海に雨が降っている光景を…、ある種の感動に打たれる。11-66
一日の仕事を終え、…君を「職工地区」の共同住宅まで送る。それが日々の習慣になる。
私と君は肩を並べて…ただ黙っているだけだ。
雨が降ると…黄色いレインコートを着て…緑色の帽子をかぶる。
…君は立ち止まり、…私の顔をしばしの間のぞき込む。
「また明日」と私は言う。10-64
私の夢読みの技術には向上らしきものは見られない。私は間違った場所で間違ったことをさせられているのではないか?
「心配しないで」と君はテーブルの向かい側から、私の目をのぞき込むようにして言う。
夢読みの合間に、君のこしらえてくれた濃い緑茶の薬草茶を飲む。10-63
私は昼前に目覚め、支給された食材で簡単な食事を作って食べる。
…、自分という体の檻から意識を解き放ち、想念の広い草原を好きなだけ走り回らせる…。
…、門衛がそろそろ角笛を吹き鳴らそうかという時刻に、私は意識を今一度身体に呼び戻し、家を出て徒歩で図書館に向かう。10-62
私は官舎地区と呼ばれる区域に、小さな住居を与えられている。
住居には生活に最低限必要な、簡単な家具と什器が備られている。
台所では簡単な料理ができるようになっている。
窓には木製の鎧戸がついている。
昼間はそれを閉ざして、陽光を遮ることができるように。10-61
「職工地区」は旧橋の北東に広がるさびれた地域だ。
…で君は急に歩みを止め、振り返って私に言う。
「送ってくれてどうもありがとう。家までの帰り道はわかりますか?」
「たぶんわかると思う。…」
君は…、私に向かって短く肯く。
私は…、ゆっくり歩いてうちに帰る。9-60
「君の影はどうなったのだろう?」
「さあ、それはわかりません。…死んでいるはずよ」
「…どこか遠いよそにやられて、やがては命を失っていきます」と君は言う。
「影が死ねば…、あとに静寂が訪れるの」
「壁が…護ってくれるんだね?」
「その為に…やって来たのでしょう」9-59
「どうしてみんなは影を棄てないの?」と君は尋ねる。
「人々は影の存在に慣れていたから。現実に役に立つ立たないとは関わりなく」
「私達は物心がつく前に影を引き剥がされる。そして切り取られた影たちは壁の外に出される」
「影たちは外の世界で、自分だけで生きていくんだね?」9-58