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『抱擁』の索引カード

戦後の英国文学を代表する作家A.S.バイアットの『抱擁』を初めて読んだのは、グウィネス・パルトロウ主演の映画が日本でも公開されて、原作が新潮文庫から出たころ、2003年ごろだと思う。1巻目を持ってフランクフルト行きの飛行機に乗り、読み始めたらおもしろくておもしろくて止まらなくなり、映画も見ずほとんど睡眠時間も取らずグイグイ読み進めたら1巻目を読み終わってしまった。2巻目はスーツケースに入れて預けてしまったので、続きがすぐに読めずにムキーッってなったのを覚えている。

その後、何度読んだことか。もう内容はわかっているので飛ばし読みしたり、気の向いたところだけを改めてじっくり読んでみたり。人に貸したら、その家の飼い犬に本をかじられて読めない状態になってしまい、慌てて買い直そうとしたもののもう絶版で、仕方なく古本屋で探したのもよい思い出だ。残念ながら今も絶版だが、もっと読まれてもいいのにと思う。

物語のはじまりの舞台は1980年代のロンドン。大学で19世紀の詩人ランドルフ・ヘンリー・アッシュの研究をしている院生のローランドが、ロンドン図書館で、アッシュが所蔵していたというヴィーコの本を借り出すところから始まる。そこにはまだ手つかずの書類がたくさんはさまっていて、どうやら女性に宛てたらしい手紙の下書きが見つかる。その熱のこもった文章をみて、これは世紀の大発見かもしれないと直感したローランドがその秘密を探っていくというミステリ仕立ての小説。合間に19世紀の詩人たち(架空の人物)の作品テキストや手紙の文章がふんだんに盛り込まれているのもユニークだし、この時代の大学の、文学研究に携わっているいろんな人物が登場し、みんな一筋縄ではいかないおかしな人間ばかりなのだが、この時代の文芸批評のカリカチュアにもなっている。壮大なパスティーシュ。

初めて読んだときには自分も大学院生で、まさにこういう世界にいて、主人公のローランド以上にぱっとしない有り様だったので、ものすごくローランドに肩入れして読んでしまった。大学院では、教授に研究成果をけなされてどんどん自信をなくし、薄給でいいように使われるばかりで、将来の展望もない…ああ身につまされる(笑)そして文学の研究をしていると、とにかく大物作家の手稿とか、手紙とか、貴重な資料を発見したら、それでキャリアが保証されるみたいなことも言われていたが、そんなのは雲をつかむような話だ。

ローランドは本当にランドルフ・ヘンリー・アッシュのテキストに知悉していて、それゆえにめぐりあうべくしてお宝に出会ったのだ。そして最終的にはあくまでも「読解」によって謎を解き明かしていくところが痛快だ。

ローランドを取り巻く人々は、当世風(といっても1980年代のだが)の、いろんな文芸批評に毒されている。フェミニストや記号論者、あるいはアッシュゆかりの品を札ビラ切って集めることに血道をあげているアメリカ人の学者など、戯画化された彼らの様子も実におもしろい。

ローランドとヒロインであるモード・ベイリー博士のロマンスと、19世紀の詩人カップルのロマンスとがパラレルで描かれているのもこの小説の魅力のひとつだ。どちらのカップルにも乗り越えるべき障害があるのだが、特に現代のほうのカップルのぎくしゃくとして不器用な関係はとてもリアルだ。

この小説にはロンドン図書館、大英博物館の図書館、リンカーン大学の図書館など図書館もいくつか登場するが、なんといっても印象的なのは冒頭のシーンに出てくるロンドン図書館だ。

私はこの本で初めてこの図書館の存在を知ってすっかり憧れてしまい(冒頭シーンの描写がすばらしい)、初めてロンドンに行ったときにこの図書館を見に行った(ヘッダ画像は私が撮影したロンドン図書館の外観)。会員制の私立図書館で、作家、学者など多くのインテリがこの図書館の閲覧室を愛用しているという。『抱擁』の著者A.S.バイアットももちろん会員で、お気に入りの場所らしい。日本にはないタイプの施設で、英国の文化の厚みを感じる。

会費と寄付とで成り立っているので、会員を募るために定期的に見学ツアーが行われている。それに参加してみた。館内の写真はもちろん撮れないが、すてきなパンフレット等が置いてあった。

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こちらはお土産用に売られていた栞とポストカード。本好き、図書館好きにはたまらないビジュアルです。

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私が行ったときは夜6時ぐらいだっただろうか。利用者がたくさんいたが、静かで落ちつく雰囲気で、華美ではなく質実剛健な調度が使われていた。ローランドが使っていたときとの違いは、パソコンを持ち込んで作業している人が多いことと、カタログが電子化されていることくらいか?それでも、昔懐かしいカード式のカタログも使えるようになっていたし、その前の、大きな台帳のような手書きのカタログも残っていた。

ローランドがこの図書館に持ってきている商売道具が、索引カードだ。

ローランドはアッシュの「ペルセポネの園」とミシュレ訳の「新科学原理」を比較し、ヴィーコの一部を索引カードに書き写した。ローランドは、こうしたカード用に、トマト色のと、濃い草緑の二つの箱を持っていたが、ふたを開けるたびに弾性をおびたプラスチックのちょうつがいが、静まり返った閲覧室に弾けるような音を響かせた。

文献を読み、資料を読んで、気になる箇所をひたすらカードに書き写していき、必要になったときにいつでも取り出せるようにしていく…というのがこの学問の基礎なのである。なので、索引カードはこの小説でなんどか登場する、重要な道具だ。このシーンでは、カードを入れる箱の色まで描写されているのが興味深い。この小説全体に、色彩の描写がとても多く、印象的な箇所が多い。色彩には象徴的な意味が込められているケースも多いので、ここの「トマト色」と「濃い草緑」にもなにか意味があるはずだ。

問題の手紙の下書きを発見したローランドは、各種資料をあたり、相手は最近フェミニストたちに再評価されている詩人クリスタベル・ラモットではないかと見当をつける。アッシュとラモットの間に接点があったことはそれまで知られていなかったので、もしこの情熱的な手紙の相手がラモットであったならばすごい発見だ。自分が本当は何を追っているのかを知られないようにしながら、周囲の人々に聞き込みをするローランド。アッシュの妻エレンの残した膨大な日記を出版するべく編纂作業をしているベアトリスにも相談する。

エレンがラモットについてなにか書いていないか聞いてみるが、ベアトリスという人は要領を得ない人で、すんなりとは答えが返ってこない。しかし、のろのろとだが彼女の「索引カード」を調べて、エレンがラモットの本を読んだ感想を書いている部分を探し出してくれる。このカードがなかったら、膨大な日記(しかも手書きのまま)に自分であたらなければこの記述は見つからないのだ。

次にローランドは、クリスタベル・ラモットの専門家であるモード・ベイリー博士に相談すべく、リンカーンシャーへ。モードにだけは、自分が発見した手紙の下書きのことを打ち明ける。興味をひかれたモードはローランドとともにラモットが住んでいた屋敷を訪れ、そこでふたりはついに、アッシュとラモットの間で交わされた手紙の束を発見。しばらくその屋敷に滞在して、ふたりでその書簡を読むことになる。ここでまた、カードが登場する。

モードが仕事の進め方について自分の方式を主張し、二人の間に冷たい空気が流れた。それぞれが、自分のとりくんできた詩人の手紙を読み、そのデータを(中略)索引カードに記入していくというのが、前もってモードが決めてきた案だった。ローランドがそれに反対したのは、むしろ無理じいされることへの反発というより、今となるとなんともお目出たい、ロマンチックな思いこみだったけれども、二人並んで手紙の上に頭をかがめ、恋の進展をたどり、おそらくは感動を共有することもできるだろうと想像していたからだった。

そう、モードは有能で美人で上流階級出身で、非常にとっつきにくい女性で、優雅だがいちいち態度が冷たいのである。愛想笑いなんかしないタイプ。その背景には、彼女自身の抱えているコンプレックスがあるのだけれど。中流の下の出身で、大学でちゃんとした立場もなく、学位も持っていないローランドは、モードに反論できる立場にはないのだった。

詩人はこの女性が、これまでの概念ではどうしても捉えられないことに気づき、手がかりを求めるが、返ってくるのは謎々でしかないらしい。ローランドは往復書簡のもう片方が手に入らないので、それがどのような謎々か知ることさえできず、テーブルの向こう側に座っている不可解な女性の方へといっそう激しく、頻繁に目を向けた。しかし相手は固く口をとざしたまま、苛々させられるほどの入念さと勤勉さで、扇のように拡げた小さなカードに、ちまちました、きれいな字をせっせと書き付けては、眉をしかめながら、カードを銀色のフックに通したり、クリップではさんだりしている。

索引カードはどんなものか知っているし、クリップもまあ普通のゼムクリップだろう。しかし、「カードを通す銀色のフック」ってなんだろう?気になる…彼らが使ってるカードには穴が開いてるのか?単語帳みたいな感じだろうか?

索引カードが活躍するのはここまで、1巻の終わりまでである。ふたりが秘密で捜査していることが次第に周囲に知られるようになり、秘密を共有しているローランドとモードは、まだ恋愛関係にあるわけでもないのに駆け落ちのようにアッシュとラモットのゆかりの地であるヨークシャーへ、さらにブルターニュへと出かける。後半、第2巻では弁護士が出てきたり、アッシュの墓を暴こうとする輩が出てきたりのスリリングな展開となる。

アッシュとラモットの関係が実際どういうものだったのかは、実はアッシュとラモットの作品のなかに隠されていて、ローランドとモードはふたりで旅をしながらだんだんとそれを解き明かしていく。ふたりとも、自分の専門とする作家の作品を深く読み込んでいるからこそできる技なのだ。

物語の結末近くで、ローランドには大きな変化が訪れる。それまでは、他人の言葉を索引カードにせっせと書き写していたのに、突然、他ならぬ自分の言葉が、自分の中のどこともしれぬ井戸から湧き上がってくるのを感じるようになる。それに続く一文が好きだ。

明日、新しいノートを買い、あふれる言葉を書き記すことにしよう。

とめどなくあふれる言葉を書き記すには、索引カードではなく、新しいノートこそふさわしい。

この小説が映画化されたことで図書館やヨークシャーの自然が視覚的に確認できるのは悪くないのだが、言葉の力を駆使した作品であるだけに、映画ではただロマンスの部分だけを追ったようなプロットになってしまっているのが残念。さらに、ローランドがアメリカ出身という設定変更もどうかと思う。でもこの文章を書いていたら、改めて見てみたくなった。映画のなかでもローランドとモードが索引カードをせっせと書いているかどうか、確認したい。

今回改めてこの小説を読んで、1980年代はいかにも遠くなった…とつくづく感じた。パソコンもインターネットもなく、せいぜいワープロを使ってる人がいる程度。連絡は固定電話と手紙が中心だ。話したい相手が電話に出るとは限らず、取り次ぎで意地悪されて連絡がうまくいかないというシーンも出てくるる。いまでは、索引カードも電子化している人がほとんどではないか。『抱擁』では、「いまやファクスとマイクロフィルムの時代ですよ」と自慢したりしているのだから、信じられない。1980年代の物語ももうすっかり時代劇だ。それでも、これからもこの本を繰り返し読むと思う。


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