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『薔薇ぐるい』のカセットテープ

5月は近所の庭先で薔薇が咲くうれしい季節。今年の春は遠出を控えなければならず、ご近所散歩が特に貴重な外出の機会だったので、満開の薔薇はいつも以上に心の慰めとなった。

薔薇の季節に相応しく、清岡卓行の小説『薔薇ぐるい』を再読してみた。美しい薔薇の絵を印刷した紙でできた箱に、同じ柄で装幀されたハードカバーの本(小説)と、白い装幀(しかし見返しは小説と同じ薔薇の絵の紙!)の清岡卓行編「薔薇の詩のアンソロジー」が一緒に収まっているという、とても贅沢な本。

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主人公は五十代半ばの大学の先生、宮川康平(国文学)で、だいぶ前に妻を失くして長らく独身生活をしている。薔薇の魅力にとりつかれ、自宅の庭で丹精込めて何種類もの薔薇を栽培しており、大学では「文学に現れた薔薇」というユニークなゼミをやっている。あるとき、このゼミに出席している女子学生、北原涼子を意識するようになる。十二指腸潰瘍が見つかり健康に不安を抱え、数年後に控えた定年後のさびしい暮らしにおびえる一方、この年になってもまだ若々しく恋ができることに驚きながら充実した気持ちを味わう…五月初旬から十月にかけての物語だ。

この小説が書かれたのは1980年代、そして小説の時代設定は70年代の終わりごろ。ケータイやインターネットがなく、学生たちとの通信手段は電話と手紙なのが新鮮に感じられる。女子学生の大学での存在感もいまとはなんとなく違うようで、ちょっと違和感を覚える箇所もいくつかある。

宮川康平の人物像には、著者自身の姿も多少は投影されているのだろうと思う。薔薇が好きで、野球が好きで…清岡自身も教え子と歳の差婚をしたらしいし、共通点は多い。

今回改めて読んで、この小説に登場する音楽が気になった。クラシックの曲が2曲だけ、どちらもカセットテープのエピソードとともに登場する。興味深いことに、なぜかどちらも作曲家の名前が明示されず、読んで行けばわかるようになっている。

1曲目はベートーヴェンのピアノソナタ第一番。康平が初めて病院に行く際に、免許取立てのがクルマで連れて行ってくれることになる。これがこのふたりの、大学以外での初めての接触で、彼女に好意を抱くきっかけとなる。康平は日頃からクラシックを聴くのが趣味で、クルマの中で「なにか音楽でもかけましょうか」という涼子の申し出に対し「静かなクラシックでもありますか」と答えたところ、涼子はあるカセットテープをカーステレオに入れる。

ある作曲家の初期のピアノ・ソナタが明るく鳴り始めた。優しくささやきかけるような情緒を、ピアニストはたぶん狙っている。ふしぎなことに、音の波は、彼の胸の奥深くとまではいかないが、その近くまで沁みてきた。

後日、繁華街に出かけた康平は「ふと思いだしたようにレコード店に入り」、記憶にある「銀色の地に緑と黒で文字などが印刷されているレーベルを頼りに」、そのカセットを探しあてる。つまりこのテープはダビングしたものではなくて、製品版なのである。クラシックの入ったミュージックテープ!そんなものもあったが、自分はついぞ買ったことがなかった。

十八世紀から十九世紀にかけて生きた、あのドイツの作曲家が書いた三十数曲のピアノ・ソナタ、その中で第一番という番号を付けられた二十四歳のときの作品。

という一節から間違いなくベートーヴェンとわかるのだが、なぜか明示されていないのが興味深い。ついでにいえば、ピアニストも「現役のピアニストの中で最高の一人とされるある人」とあるだけで、具体的には書かれていない。登場人物たちの名前と、取りあげられる詩の作者の名前は重要だが、それ以外は余計な情報ということで意図的に省いているのだろうか。

私は中学三年のときにこの曲を発表会で弾いたことがあり、初めて弾いたベートーヴェンのソナタということもあって思い出深く、小説に出てきたこの演奏が誰のものかもとても気になる。カセットの描写からレーベルだけでも特定できないかと思ったが、難しそうだ。そもそも実在のカセットのことを書いているかどうかもわからないのだが。

康平は、同じ曲をしつこく繰り返し聴くたちであると自ら小説の中で告白している。

そのカセットをいったい何回聞いたことだろう。優しくささやきかけるように始まる情緒を、そしてその生動する力強い展開を、二か月あまりむさぼるように聞いた。そしてついに食傷した。自分でも困った癖だと思うのだが、熱中しすぎるのである。溺れすぎるのである。そのあとは逆に、半年も一年も聞きたいと思わないのだ。どこかで偶然その楽曲と演奏を耳にすれば、やはり快く懐かしい酔いを覚えるとしてもー。

五月から散々ベートーヴェンのソナタを聞いたあと、次にハマるのが、夏休みのはじめごろにたまたまFM放送で耳にした「あるクラリネット五重奏曲」だ。その曲の、「あるクラリネット奏者によるレコード」が無性に欲しくなって、またレコード店に出かけて行き、今度はレコードを買う。

そして、この曲が「心と体双方の奥深くにまで沁みてきた」原因は、「中年もなかばを過ぎた孤独とその情念にあると考え、「十九世紀の後半に活躍したあのドイツの作曲家は、このクラリネット五重奏曲を人生のどんな時期に創作したのか」を知りたいと思い、評伝ふうの本も買って帰る。

「独身で六十四年の生涯を送った作曲家は、五十七歳から五十八歳になる年に、卓抜なクラリネット奏者と知り合い、インスピレーションを得てこの曲を作曲した」という、康平が本で得た知識が披露されて、読者にもこのクラリネット五重奏曲がブラームスのものと判明する。

康平は、自分の年齢とブラームスがこの曲を作曲したときの年齢が近いこと、生涯独身だったブラームスがこのころ健康に不安を抱えており遺言を準備していたこと、さらに二十九歳年下のメゾ・ソプラノ歌手と親しくしていたらしいことを知り、自分とブラームスの姿を重ね合わせてみたりする。

いうまでもなく、最初のベートヴェンも、次のブラームスも、康平自身の心情を映している。ベートーヴェンが二十四歳のときに書いた溌剌としたピアノ・ソナタは、二十歳そこそこの涼子の象徴でもあろう。そして晩年に差し掛かりつつあるブラームスが書いたクラリネット五重奏曲に惹かれるのは、三十三歳も歳下の涼子への思いや、「中年もなかばを過ぎた孤独とその情念」のゆえである。

この小説は、地の文で、康平の行動と想念が描写されているが、こうして具体的な楽曲を挙げることで、ますます彼の感情は読者に明らかになるので、音楽は非常に効果的な使われ方をしている。彼は演奏による違いにも敏感らしいので、演奏家の名前もわかれば、ぜひ同じものを聴いて追体験してみたいと思うのだが。

物語の終盤、クラリネット五重奏曲のレコードを買った康平が、ベッド脇にある「小さなカセット・レコーダー」で聴くために、レコードからテープに音を取っているシーンが出てくる。これは、現在四十歳くらい以上の人ほとんど全員にとってお馴染みの行為だろう。この小説に重要な要素である楽曲の両方について、カセットテープにまつわるエピソードが出てくるのが、時代を反映していて懐かしい。

このあと、康平はクラリネットという楽器そのものにまで魅せられ、自分で鳴らしてみたくなり、楽器まで買おうとする。本当に買ったのかどうかは読者にはわからないのだが…クラリネットブームはいつまで続くのだろうか。物語が終わっても、そこが気になってしかたがない。

そういえば、音楽に自分の思いを投影させるような聴き方も、長らくしていないような気がする。人生に劇的なことでもないとあまりそういうことにならないのかもしれないが。

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