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意味や価値があるかなんて、読んだ人にしか分からない

noteの下書き画面を開いて10行くらい書いたところで「こんなん公開してどうするんだ」と思ってそっとPCを閉じる。

この一連の流れを、今まで何度やってきたことだろう。

書きたいけど書けない、何を書いたらいいのか、いや、何なら書いてもいいのかがわからないのだ。

「折角読んでくれる人がいるのなら、読んでくれた時間を無駄にしたくない。」

「読んだ人の役に立たない記事なんて、公開しても意味がない」

そう思って、下書きの数が一つ、また一つ、とあっという間に増えていく。

思い切ってとにかく書きたいことを書いて「えいやっ」と公開してしまえばいいではないかとも思うこともあったが、なかなかできない。


そんなモヤモヤを抱え続けて2年くらいたった最近のこと。たまたまこんなnoteを見つけた。

何でもかんでも分析したり言語化したりして、それらしい結論づけをしなくてもいい。すぐに変わってしまう「気分」を記録すること、それ自体に価値がある、という内容だった。

そして特に印象的だったのが、この部分。

“つまらなくてもいいし、ユニークじゃなくてもいいし、洗練された言語化もされていない。価値だってなくてもいいし、意味なんてついていなくてもいいと思う。
だって、意味はきっと数十年後の誰かが勝手につけてくれるから。”

公開する時点で意味や価値がなくても後で誰かがつけてくれる、というのは目からウロコだった。


でも、確かに改めて考えてみると、意味をつけるのは自分ではないはずだ。

自分がただの日記と思って書いたものでも、読んだ人にとっては新しい考えや出合ったことのない出来事を知られるかもしれない。

逆に自分が「これはきっとたくさんの人の役に立つはずだ!」と思って書いたものが、ほとんど役に立たないことだってあるかもしれない。

結局、読んだ人にとって意味や価値があるかなんて、誰かが読んでみるその時まで、そして読んだ本人にしか分からないのだ。

だから、書いている時点で役に立つかどうかを考えても仕方がない。

残しておきたいこと、忘れないでいたいことを、自分のために書いたらいい。


きっとこうやって書いても、私のことだからすぐには思ったこと、感じたことを公開していけるようにはならないとは思う。

でもこのことを頭の片隅に置いておいたら、きっと今までよりは気楽にnoteを書ける気がする。

だから、この「書けそうだな」という気持ちを、このnoteで残しておこう。


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三橋 七緒
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