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自己肯定をする/人付き合いと駄弁りについて

知らない人と話すことが、いつも楽だと思っている。
嫌ならば自分の奥深くを話さなくて済むし、少し心を許せそうと思えば、寧ろその後の付き合いを考えずに自分の中身を打ち明けられる気がした。


私は無駄に駄弁ったりするのがあまり得意ではない。というか、そういう習慣を持つ人たちが今まで私の周りにはなかったように思う。
今、わりあいそういう時間があってそれに対して新鮮さ4割、煩わしさ6割。
まず基本的にそういう場所はあまり得意でないことに気づいた。これも今の状況になって気づいたことだけど、何事にも目的が必要と思ってしまうところがあるから目的も無くふわふわと言葉が漂っている空間が、どうしてもまだ馴れないのだ。(まだ馴れないだけなのかこれからもなのか)

だけれど自分がいない空間がその子達の普通にされるのがなんだか嫌で、自分のベクトルがそちらに向いていないときも無理やり行ったりする。

あ、そういえばこういうの、小学校のときにやっていたな。対して興味のないバラエティを無理やり観て自分にこれは面白いもの、と暗示をかけて。

この年になってなぜ無理をするのかと言われたら、他にも理由はある。そこにいる人たちの中でも2人、3人は心を許せて、「私を受け入れてくれる人」として信頼していること、それと、自分とは違う考えの人とも話して自分の知らない世界を覗きたいこと。
自分とは違いすぎる意見の人がいるとちょっと辛いけど、自分とは違う意見を取り入れられるのは楽しいと思うときもある。それは心の疲れ具合によりけりだ。


さて、ここからは自己肯定で、駄弁りについて真剣に考えてみた。

やっぱり人と深く関わることは苦手なのかもしれない。

自分がつまらない人間と思われるのが嫌だし、自分の根っこの部分がゆるゆるで何もないことをすぐ測られるのがいやで、ちょっとでもそういう部分を見せられない人がいると、上っ面の脆いバリアを重ねてそれに自分ががんじがらめになり、上滑りの会話をしてまた焦る。もしその場に、そういう自身ののダメな部分を素直に見せられる人に嫉妬してまた自己嫌悪に陥る。

上に、「そこにいる人たちの中でも2人、3人は心を許せて、「私を受け入れてくれる人」として信頼していること」とかいたけど、大人数のときに、その子が楽しそうに笑っているとやっぱり私といてもつまらないのかもしれない、って思ってしまう。

だけど多分そういうことじゃない。
毎日一緒にいたら、話す内容がなくなるのは当たり前だし、逆にそれでも毎日話が続くときもある。

それでいいのだ。

ふだんの自分にとっては「無意味」と考えられる時間も一緒に共有する、そういう人付き合いに慣れてないだけ。そう思うことにして、別に行かなくてもいいかな、と思う日でも、集まってたらちょっと無理して行ってみる。
そうすると、意外と新しい話が聞ける日もあるし
そうでない日も生まれる。

もちろんそれは無理しすぎないのがいいかな。そうやって無理しない自分をきっと相手も受け止めてくれてる。

結局人付き合いはつくづく、相手を信じることだなと。そうすることで、自分も相手を信じられるのだ。

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