ねころんでロンゴ(論語)~教えることは

子罕第九

原文

子曰「吾有知乎哉。無知也。有鄙夫問於我。空空如也。我叩其兩端而竭焉」

書き下し

子曰く、「吾知ること有らんや、知ること無きなり。鄙夫(ひふ)有り、我に問う、空空如(こうこうじょ)たり。我其の両端を叩きて竭(つく)す」。

孔子がちょっとよくわかんなくなって言った。
「オレって物知りかな~?いや~、そうじゃないよな~。ただ、どんだけもの知らないヤツが来ても、まじめに教えてくださいって言われたら、とにかく全部教えちゃうってだけなんだよな~」

※「空空如也」を「空っぽのヤツ(無知なやつ)」という意味と解するか、「素朴で純粋なヤツ」と取るかで解釈が異なる。
前者は「相手が空っぽなので、それを丁寧に教えていると、周囲には物知りに見える」という意味になり、後者では「誠意をもって知りたいと聞いて来れば、誠意をもって教えているだけだ(謙遜の意)」といった意味になる。
今回は個人的な思いを込めて後者をとった。

寸感

人間とは「質問に対して答えを考えなくてはいられない生き物」だと聞いたことがある。

特に真正直に知りたい意欲をぶつけられると、知っていることは教えられるし、知らないことは答えるために調べて、自然に知識が増えていくもの。「教えることは教えられること(学ぶこと)」というのはこういうことなんだと思う。


ただ、前提条件としては「相手が自発的に聞きに来る」から、教えることで学べるのであって、「(自分が)学ぶシステムがあって初めて学ぶ」、「誰か教えてくれるでしょ」、「覚えろと言われたから学ぶ」的な、教えられるのを待つような類に対しては、正直どうしようもないのが現状である。

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