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天体の光に生が浮かぶ


22時すぎ。暗い道を走っている。
釧路から家までは約1時間。
鹿がキツネがいつ出てくるかもわからないから細く長い集中力を保ちながら。
こんなシチュエーションでEnyaの歌声を聞いていたら、どこかに飛んでしまうだろうという予感がして、かけてしまった。
月がもやの中で黄色く怪しげに浮かんでいた。

新海誠の「すずめの戸締まり」という映画を観た。
奇しくも、今朝、朝ご飯を作りながら来月に三陸のトレイルを歩こう、と決めたばかりだった。
大学3年の夏。自転車に乗って東京から北海道まで旅をした。耳の聞こえない大沢さんというおじいちゃんに拾われて、遠野から久慈まで岩手の海岸を通ったことがある。
防潮堤で海の見えなくなった海辺の集落。

マグマのようなミミズ。
それは自然であり、神であり、大地であり、海である。
海を鎮めるために、祈り、観察し、そしてまた祈る。
それしかちっぽけな人が出来ることはないという、確信に満ちた諦観。

やっぱり。東北に行こうと思った。

震災の記憶は忘れていく。
それは人の自然の営みであり、昔は集落で語り継がれたことが、いまは細分化した社会の中で特に断片がしているようだ。
この映画は、私たち大衆の記憶を呼び起こす装置なのだと思う。

月は雲にかかり、下半分の半円状。
怪しげな形は不吉であり、その歪さに心や関心を惹かれる自分の心がある。

皆既月食の夜。
一度ならず月をみあげ、夜空を見上げた。
絵のように浮き上がる月は作り物のようで、手に届きそうで。
50年以上も昔にあそこに人がいっただなんて。
人は本当に不思議な生き物だ。


日の出を見に山に行った。
暗闇に光満ちて。大地に光、満ち満ちて。
聖書のフレーズのよう。

太陽の光に照らされるという偉大で、日々繰り返される、現状の奇跡。

年甲斐もなく、感動して、
思わず手を合わせた。



毎日を生きていること。
力いっぱい生きているわけでも、立派なことをやっているわけでもない。

人生は不安定で、いつ終わるかわからなくて、
仕事を辞めて、次にやることがどうなるかわからなくて、楽しみで、不安で。

そういう時にふっと生が浮かび上がる感覚になる。
根のついていないコンブみたいに、ふわりっと水に浮かんで、どこまでも流れて行けそうになる。

その感覚は少し危なっかしくて、でも、中毒性のある感覚。

そんな夜。そんな一週間。

山に行った翌日に、雪が付いていました。
もうすぐ、冬ですね。

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