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江戸時代の京都の物流を支えた港町・伏見

私自身、京都の伏見に住んでいます。
伏見は、京都の中心部から少し南、月桂冠や黄桜といった酒蔵のある町としても有名です。

伏見の町は、現在は京都市内ではありますが、いわゆる「碁盤の目の京都」の外にあり、全く別の成り立ちをした町です。

この伏見の町を整備したのは、豊臣秀吉。
天下を統一した後に、この伏見に城を築いたのです。

伏見は、京都と奈良とを繋ぐ街道と、大坂へと流れる宇治川(淀川)とが交わる交通の要所でした。
その城下には各地の大名の屋敷や、店舗が建ち並ぶようになります。

関ヶ原の戦いの際に伏見城は西軍の攻撃により、焼け落ち、江戸時代になって一旦は建て直されはします。  

しかし、十数年程度で一国一城令で廃城となります。
幕府にとっては重要な地点ではあるため、奉行所は置かれます。

京都と奈良を結ぶ街道と、宇治川(淀川)の合流点ゆえに、伏見は物流上重要な拠点であることには変わりませんでした。

江戸時代になって、京都の商人だった角倉了以(すみのくらりょうい)により、洛中から伏見への運河として高瀬川が開削されます。


高瀬川ができたことで、全国からの物産が集まる大坂から、淀川を遡って伏見へと運ばれ、荷物を積み替えて京都市内へと運ばれるようになったのです。

高瀬川による物流が整備されたことで、江戸時代に50万人とも言われる京都の人口を支えることができたのです。伏見で酒造業が盛んになったのも、この物流網と質のよい軟水の湧水があったからこそなのです。

江戸時代から明治・大正にかけてまで、やはり水運が物流の主役でした。

この荷揚げ場で荷物の積み替えがされ、かたや宇治川(淀川)へ、かたや高瀬川へと荷物が運ばれていったのでした。


廃城となった伏見城の跡地はどうなったかというと、江戸時代の間は何かで使われていた様子もなく、立ち入りも許されなかったようです。

その後、本丸のあった辺りは、明治天皇陵となっています。
この通り、中には入ることはできません。
明治天皇陵のあたりをウロウロしていると、城の縄張りがあった跡も見て取れますが、自在に巡れる訳ではありません。

明治天皇陵の南からであれば宇治川の周辺を眺めることができます。
ここが、宇治川と奈良との街道を押さえる重要な場所ゆえに、このように一帯が見えるよう本丸があったわけです。

ご希望であれば、本丸までの高さを、この階段を上って体感することもできます。段数にして230段あります。

城の下から、一番高い本丸まで一気に上る訳ですから、このくらいの高低差があっても不思議ではありません。


城下町として築かれ、水運の拠点として発展しきた城下町の「伏見」
町のあちこちで、江戸時代以降の歴史を感じられる場所がある町です。

碁盤の目の中の京都とは、また違った魅力があります。


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