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019.貨幣経済考

2002.6.25
【連載小説19/260】


早いものでこの島に移住して四ヶ月になる。
太平洋の真ん中にポツンと浮かぶ小さな島。
そこに暮らす人は少なく、必要最小限のモノとコトしかない…

「カルチャーショックはない?」と、よく尋ねられるが、「ない」と言っていいだろう。

僕はそれまでも南海の島々を転々と旅して、物語をはじめとするテキストを書く生活をしていたし、ミニマムの所有でマックスの外的環境と付き合うライフスタイルを長く実践してきたから、違和感などないのだ。

むしろ、この島が持つITとグローバルネットワークは、物理的空間における非文明性をカバーして余りある環境を提供してくれるから、執筆活動が放浪型から定住型に変化した分、落ち着いた気分を日々感じている。

そんな中、最近、ある文明的行為からは遠ざかってしまったなと痛感することがある。
それは、「お金を使う」という行為だ。

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衣、食、住、遊…
文明生活における日々の行動は、その大半にポケットやカバンから財布を取り出してお金を受け渡しする行為が伴う。

それが皆無のトランスアイランドでは、ポケットから財布が姿を消し、「支払う」という行為が抜けた日常は、それだけでとてもシンプルだ。

そこで思うのが、文明生活とは、支払い行為なくして先に進めないゲームのごときものなのではないかということ。

貨幣経済社会における支払い行為は、単なるサービスや物品の入手手段にとどまらない。
その背景には、給与所得や預貯金と借金、それに伴う金利など複雑なからくりが存在し、所有者はそれら全てを持ち駒として、ゲームに挑まなければならないということだ。

そんな感覚で日々を過ごす人は希少だろうが、資本主義社会の勝敗が富としての貨幣の量で判断される以上、そこに参加するプレーヤーの勝ち負けは日々の支払い行為の集積の先にあるといっていい。
無駄遣いを繰り返す者は敗北に近づき、消費を上回る蓄財を重ねるものが勝利に近づく。

僕はここで、その善し悪しを論じるつもりはない。
この島にだって、ネットワーク上のヴァーチャルバンクが存在し、外界との取引は円やドルでなされているし、僕自身も日本の口座に振り込まれる印税や原稿執筆料を時々チェックしている訳だから、少なからず貨幣ゲームに参加しているプレーヤーであることに違いはない。
ただ、「お金を使う」という実行為のないことが、かくも快適であるという実感を強調したいのだ。


さて、ここで、僕なりの貨幣経済史考察をしておこう。

人はその暮らす環境(海とか山とか)や、日々の活動(狩猟とか農耕とか)から手にする富(自然のモノ)がおのずと限られる。
が、自身で入手した富だけでは生活が潤わないから、他者との交換を始める。
が、富の素材が、大きくなったり、多くなったりするとあれこれ支障(運搬とか保存とか)が出てくる。
加えて、現物を持ち寄って交渉が成立しなければ、徒労に終わるばかりか、肝心の富の価値が減ったり、なくなったりする。
それ以外にも、富の入手の季節差や複数アイテムの入り混じった交換など、その場で即時交換が困難なケースもある。

そこで、交換のエージェントたる貨幣が登場する。
つまり、リアルな富のやりとりを、ひとまずはヴァーチャルな何かに置き換えて、架空の交換をして、その結果に基づいて具体的なモノを効率的に移動させれば、もろもろの課題が解決できるという仕掛け。

おもしろいのは、その役割を担ったのが、貝殻とか石という、どこにでもころがっているモノだったこと。
つまり、その時代には富として認知してもらえなかったものたちに「便利屋」の役割が与えられたのだ。

ところが、その後の人類の文明化の過程で、浜辺の貝殻や路傍の石が、金や銀という「どこにでもない」モノに化け、木から生み出された紙にインクで呪文を刷り込まれた奇妙な束に進化し、果てにはどこかに寝かしておくだけでその価値が増える(最近は減る)魔法のエージェントとなったことは既知のとおりである。

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トランスアイランドには「Isle」という単位の「通価」がある。
「通貨」ではなく「通価」としたところがコミッティの狙いだ。

数値化され、島全体の総量や島民アベレージが公表され、「長者番付」まであるから、貨幣的な指標として受け止められがちであるが、島への貢献度のバロメーターであり、数値が大きくても小さくても、個々の生活が物理的に豊かになるものではない。
そこにあるのは、コミュニティへの愛着心と、素朴な他者への思いやり。
つまりは、精神的な豊かさだ。

僕なりの解釈を加えるなら、文明側のお金や土地のように、「分けると減る富」に対して、感謝や感動のように「分かち合うと増える富」が「Isle」ということになる。

------ To be continued ------

※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

数年前からGDPに代わる新たな指標の検討が各所でなされていますが「資本主義」そのものの見直しのベースとすべきは豊かさの再定義だと思います。

「通貨」ではなく「通価」としたトランスアイランドの「Isle」に託した僕の思いは、この後10年ほどを経て2010年代のシェアリングエコノミーの台頭で具体化してきたな、と感じました。
その後フィンテックやブロックチェーンに関して勉強するようになったのも最先端の金融工学を学びたかったからではなく、価値の交換そのものに創造的破壊がおこるのか否かを見極めたいとの思いでした。

そして迎えたコロナ禍。
「モノ」も「情報」も「カネ」も、その流通形態に変容の兆しが出てきました。
今は僕の書斎のデスクにNFTに関する書物が鎮座しています。

シンプルな島の生活でも世界と豊かにつながるシステムを考えることが、経済学のニューノーマルになれば良いのですが…
/江藤誠晃



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