123.池袋の満天の夜
2004.6.22
【連載小説123/260】
「一緒に神話をつくらない?」
と、スタンが笑顔で持ちかけてきた。
彼とのつきあいも長いから、それが単なる思いつきの発言ではないことがよくわかる。
多分、その頭の中には既に計画のプロットと幾つかのアイデアが出来ているはずだ。
「神話を創作するなんて、物書きにしてみれば大それた行為だよ」
と、僕が返すと。
「いや、神話なんてものは、創作される段階では全てが時代時代の変わり者か夢想家による気まぐれなフィクションだったに違いない。それらの中で語り継がれ、生き残ったものだけが神話として崇められているんだ。後世に残るか否かは別にして、創作そのものは自由だろ?」
とスタンの分析。
「確かに、文学として神話を見れば、登場人物が神々であるという設定を除けば、ストーリーそのものには複雑なギミックなき荒唐無稽なフィクションととることも出来るね。いや、むしろ人間界から離れたところの物語ゆえに信憑性なき展開が可能なのかもしれない…」
「つまり、神話とは徹底した想像力の賜物として生まれる究極のフィクションで、そこに文明的な裏付けは必要ないんだ。そんな物語をトランスアイランドで生み出せないかな?」
僕らがこんな会話を交わしたのは、波照間島の帰路、東京で過ごした幾日かの間の一夜。
池袋のプラネタリウム「満天」でナイトプログラムを鑑賞した後のカフェの中だった。
(5月下旬の波照間島への旅は第118~120話)
僕らを包む繁華街の夜は、人ごみと騒音とネオンの渦で神話には程遠い空間だったが、浪漫溢れる話に花が咲いた。
それは多分、ハワイの夜の虹を見るという、メロウなひとときの余韻に浸っていたからだろう。
そう、僕らは東京の真ん中で極上の南国体験をしたのである。
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まずは「満天」のことを説明しておこう。
プラネタリウムという知的にしてロマンチックなアトラクションは、施設の老朽化や高額の設備投資、上映ソフトの充実といった要素から経営的に厳しい時代を迎えている。
各種AV機器やインターネットの普及による大衆の視聴覚環境変化も大きな競合になっているのだろうか、プラネタリウム閉館のニュースは各地で相次いでいる。
そんな中、注目を集めているのが一旦は閉館した池袋の施設を復活させた「サンシャイン・スターライトドーム“満天”」である。
ここでは従来のプラネタリウムプログラムにCGプログラムやヒーリングプログラムを加えることで、複合番組構成による星空のエンターテインメントを実現し、多数の来場者数を集めている。
ちょうど話題の夜のヒーリングプログラムが、僕らもよく知るカメラマン高砂淳二氏の写真集『night rainbow祝福の虹』をテーマにしたものだったこともあり、スタンを誘って訪れたのである。
(このプログラムは既に2004年6月12日で終了)
南洋の花の香りを染み込ませたペーパーを胸ポケットに入れてドーム内に。
リクライニングシートに身を委ねると波の音が小さく聞こえ、早くもリラックス気分。
照明が落ちて星空が広がると、ゆったりとしたナレーションがスタート。
ウクレレやスラックキーギターによるハワイアンミュージックをBGMに、ハワイの夜の虹の映像が次々と投影される…
プラネタリウムという閉鎖空間が、演出次第でここまで心地良いリラックスゾーンになることに感動した僕だったが、スタンは波照間島の星空観測タワーに続いてトランスアイランドのプラネタリウムプロジェクト展開に大きなヒントを得たらしい。
そこで、カフェに場所を移しての長談義になった訳だ。
(スタンの計画は第84話)
小さな島に最新鋭のテクノロジーを駆使したプラネタリウム施設を造り、世界規模のネットワークで天文ポータルを目指す。
その構想自体は着々と進行していたが、彼の中ではヒューマンウェアにかかわるプラスアルファの何か、トランスアイランドならではの付加価値がほしいとの思いが膨らんでいた。
そして、その答がスタンの中で神話というスタイルで明確にイメージされたのである。
ふたりで語り合った神話づくりの中身に関しては、次回に報告することにして、今回は「神話とはなにか?」について語り合った内容を簡単にまとめておこう。
プラネタリウムで紹介される天空の神話にしても、ギリシア神話やポリネシア神話にしても、そこに登場する神々は、信仰や宗教における絶対的な神とは異質なものである。
絶対神が人間の創造主であるのに対して、神話の神は人類の想像力が生み出した偉大なる擬人だといっていい。
着目すべきは、スケールの差はあれ、その神々に滑稽さや残酷さや愚かさなどの人間臭さが内在している点で、舞台が人類の日常から遠く離れた神聖な場所にありながらも、そこに自らの姿を投影できる余地を残して神話は創作されてきたのである。
「神話とは公共の夢である」
とは、神話学者ジョセフ・キャンベルの言葉だが、人類には物語の聖地を創り出すことで万民に通じる夢を具現化する才能が最初から宿っていたのかもしれない。
その意味において、満天の星空や水平線の彼方や森の奥深く、という非日常空間は優れた舞台装置である。
そこで繰り広げられる闘争やロマンスとは、個人にとっては遠い別世界の出来事でありながらも、どこかで手の届きそうな可能性が残されているのだから…
「夢とは個人の神話である」
上記のジェセフ・キャンベルの一言が、そう続いていることを紹介しておこう。
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スタンと深夜まで語り合った池袋の夜。
カフェから街路に出た僕らの前の光景は、数時間前と変わらぬビルのネオンと車のライトによる人工の明かりの海だった。
島にいれば、夜の時間の推移は次第に減っていく家々の明かりの数で体感できるが、都会の不夜城ではそれがかなわない。
楽しい会話で、どれほどの時間を過ごしたのかわからず、夜空を見上げると、「夏の大三角」が大きく移動していた。
果たして、街路を歩く東京の若者たちは夜空を見上げ、天空になにごとかを想うことなどあるのだろうか?
明かりの中に埋もれて暮らす民にとって、まばらな星空など魅力にかける別世界でしかないのかもしれない。
が、それ故に「満天」の静かなひとときが、人の心を南の島や遥か遠い天空に結びつける貴重な意味をもって、これからも支持され続けるのだろう。
数日後。
夜に成田を飛び立った飛行機の窓から見下ろした東京の街は、小さな電球を敷き詰めた広大な庭のようだった。
それを美しいと思うと同時に、僕の中で天地が逆転したような気がした。
機体が大きく旋回し重力バランスが崩れたことが手伝ったのかもしれないが、無数の明かりに輝く街を「見下ろしている」のではなく「見上げている」ように感じたのである。
人工の光も、そこで慌しく生きる人々も、見方によっては輝く満天の別世界であるという考え方も悪くはないような気がした。
僕の行き来するトランスアイランドと東京、つまりは自然と文明の双方が、互いの星空としてバランスよく輝き合うなら、その狭間に生まれる21世紀の神話もきっと可能だと思えたからだ。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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