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050.楽園を支える精神部分

2003.1.28
【連載小説50/260】


何故に南の島は「楽園」なのか?

最も汎用的な回答は、その気候と風土だろう。
世界中に観光地と呼ばれる場所は数あれど、極北の地では防寒対策が求められ、高地に行けば空気の薄さに行動が規制され、人の密集する街では犯罪や事故が隣り合わせで存在する。

また、同じ暑い「南」であっても、野生動物が主役の大陸や熱帯雨林の地に対しては、ある種の緊張感をもってアプローチしなければならないから、そこに「楽園」という言葉の持つ開放感はない。

暑いながらも低湿度が快適性を生み、吹く風は身体を心地良く刺激する。
色とりどりの花が目を楽しませ、新鮮な果実や魚介類は食欲を満たしてなお余る。
加えて、本能的緊張感を持って向き合う外的生命は存在せず、土着の人々は皆おおらかで献身的…

これらが南の島々を「楽園」たらしめてきた気候風土条件だ。

が、しかし。
やはり完璧な「楽園」などありはしない。
そこにも天災というあまりにも大きな外敵が存在する。
そして、その恐ろしさは「非楽園」における敵を大きく超えている。

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18日にマリアナ諸島付近で、台風1号が発生した。
年末にグアム島における災害史上最大規模の被害を記録したのが昨年の26号。
その復旧も最中の今、自然の猛威は早くも新たな年度の活動をスタートさせている。

我々にとって、自然の猛威を身近な体験として知ることとなったのが年末のソロモン諸島におけるサイクロン被害だった。
ティコピア島という小さな島の住民の安否を隣人のごとく気遣う中で、太平洋上における島国家の無防備感や孤立感を再認識する機会となったのではないだろうか?
(救援活動に参加することで生まれた一体感や連帯感も貴重だったことを付記しておこう。)

「楽園」の島とは、大いなる自然の前に極めて丸裸の状態で存在するコミュニティだ。
丸裸であるがゆえに、自然の恵みに直接的に触れる特権を得ながら、同時にその怒りを最も強く受け止める覚悟が求められる。

例えば、そこが観光地であれば、電気や水道といったライフラインが瞬時にストップし、豊富なはずの食料が入手不可となり、発生する疾病に対処する医療活動も不完全となる。また、被害が大きければ島外脱出の空海路が絶たれ、場合によっては通信による外界とのコミュニケーションさえ成り立たなくなる。

平時のメリットや強みが、有事には全て逆転してデメリットと弱さに直結する。
つまり、自然を相手のリスキーな駆け引きを行う中に「楽園」はあるのだ。

さて、「楽園」における人と自然の関係を語る上で忘れてはならないキーワードがあるので、そちらにも触れておこう。
「アニミズム」だ。

天災体験という極めて現実的・物理的な自然との駆け引きの一方で、南の島には“精霊崇拝”という高度に精神的な自然との霊的関係が保たれてきた。

西欧宗教における神が人間側に存在する唯一絶対の存在にして万能集中型であるのに対して、南国の民の信仰対象は自然の中に点在する神々、すなわち八百万の神と例えられる分散型の環境総体であった。

社会の構造性や関係性に及んで分析してみよう。

まず、大陸という物理的環境にゆとりを持って存立する西欧では、その進化を階層的蓄積の中に求めることから生まれるピラミッド構造が、より力と富を持つ少数層を神格化する。
民の精神は絶対的権力者を起点とするヒエラルキーの中に点在して構成されるから、その拠り所が現実から信仰の場に移っても、同様の求心的かつ人的存在を求めることになる。つまり、極めて人間的な神だ。

これに対して、限られた環境の中でフラットな関係性を維持し、循環と共生をベースに時を重ねる南国では、圧倒的な他者として存在する大自然が複層的かつ変幻的な神として日常を包み込んである。

つまりは、日常環境の中で畏敬を持って向き合う相手が、自らの社会の内部にあるか外部にあるかの相違が「楽園」の精神部分を支えているのであり、西欧の民は豊かな自然という物理的非日常への移動を通じて、知らず知らずのうちにアニミズムという精神の非日常を体験しているのが南国観光の魅力でもある訳だ。

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21世紀ネットワーク社会の成否もまた、その連携が人間レベルに留まるか、広く自然環境まで伸延しうるかにかかっているのだろう。

どれだけ高度に進化しても、人類にはままならぬ現実が次々と生まれ出てくる。
人類は決して万能ではないという謙虚な認識から生まれる「知の楽園」というものがきっとあるはずで、そこへと至る第一歩としてアニミズム的アプローチは充分に効果的なはずだ。

トランスアイランドにおける観光産業も然りである。
豊かな自然の中にどこまで人智を移植するかの文明的・産業的追及の先にその未来はない。

人智の中にどれだけ豊かな自然を取り込めるか?
そんな精神テーマが最初にあってこそ、楽園は可能なのだ。

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

豊かな自然の中にどこまで人智を移植するか?
人智の中にどれだけ豊かな自然を取り込めるか?

当時の僕は常に文明と自然を対極概念としてものごとを考えていました。
それがSDGsの10年以上前で、今はというと「自然・社会・経済」の3層構造で世の中を構造的に分析するようになりました。

このポジション変化、実は大きなパラダイムシフトだったと思います。

世界を転々と旅しながら「真理」のようなものを模索していた当時、目にするものと得る知識を受けてのひとまずの結論は文明に対する悲観的な思いばかりでした。

おそらく「人智」と「自然」を対極で分析するのではなく、ゆるやかに融合する「共存共栄」の関係で見るようになったのです。
/江藤誠晃




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