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047.飛行艇に乗って

2003.1.7
【連載小説47/260】


行き過ぎた文明に対していつもどこかで疑問を感じている僕が、無条件でその成果に賞賛をおくるのが航空技術だ。
つまり、僕は飛行機が大好きなのである。

方々を旅する中に人生を重ねてきた僕にとって、飛行機はなくてはならない存在であった。
太平洋上の島々は船で訪れることも可能だが、限られた時間の中で様々な地を効率よく巡るのに飛行機に勝る輸送手段はない。

思い起こせば、子供の頃から青空へ飛び立っていく旅客機を見るのが好きで何度も空港へ通った。
輝きながら小さくなっていく機体を見上げる少年の脳裏には、未だ見ぬ世界がたっぷり残る人生の時間とともに可能性として蓄積されていた。

ひょっとすると、南方の島々を活動のフィールドとする僕の生活は、飛行機という人類の夢とテクノロジーが誘い導いてくれたものだったのかもしれない。

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2003年を迎えた。
開島2年目となる今年を、トランスアイランドの観光元年にしなければならない。
既に進められている観光政策の解説を重ねていこう。

まずはツーリストを運ぶ飛行艇のことから…

飛行機に乗ることの醍醐味は、その飛行体験、つまりは空上の時間であることに間違いはない。
が、どうだろう?
「離陸」と「着陸」。
この凝縮されてドラマチックかつ緊張感を伴う瞬間とその前後の短い時間を、飛行体験のもうひとつの魅力といってもいいのではないだろうか?

既に何百回もの離着陸を体験してきた僕でさえ、未だに期待と不安が交錯する微妙な感情を楽しみながら離着陸時を迎える。
きっと飛行機に乗る多くの人にとって、長旅のスタートとゴールともいえる離陸と着陸の短時間は優れて高品質な旅情なのだ。

その離着陸を珍しいかたちで味わえるのが、トランスアイランドで旅人や物資の輸送に活用されている飛行艇だ。(正確には離着水だ)

人工物としての確かな感触を伴う滑走路での離着陸に対して、飛行艇の離着水は大地という人類の生活圏から一歩離れた場所で行われるから、その旅情はさらに濃いものとなる。
つまり、同じ距離を飛びながらも、この島を訪れる旅人には文明からより遠くへ離れた心地良い錯覚があるということ。

ところで、今では見ることも少ないが、第2次世界大戦以前に北大西洋横断航路や日本・ミクロネシア間の南洋航路の主役として活躍したのが水陸両用の飛行艇だった。
20世紀後半の陸上機の飛躍と空港整備により、旅客輸送の主役の座は明け渡したものの、水さえあれば、どこでも到達可能な機動力と荒海へも着陸可能な性能を活かして、今でも洋上救難や離島の医療活動などの分野で着実な活躍を重ねている。

トランス・コミッティは現在、旅客物資輸送用に中型飛行艇を2機所有しているが、その導入理由と目的をまとめておこう。

まずは、環境との共生をその核たる思想とするトランスプロジェクトにおいて、多大なコストと生態系へのインパクトが予想される空港設備は避けたいものであること。

また、それがなくとも飛行艇活用により小島が世界と繋がって存続可能なデモンストレーションを行うこと。

島の周囲に点在する珊瑚礁により、波の少ない離着水に適した穏やかな場所が安定確保できること。

これらが環境的要素だが、加えて政策的な目的もある。
それに関しては、まさに今、その具体活動を行っているのでレポートのかたちで記しておこう。

昨年末、12月28日。
南太平洋ソロモン諸島が風速90メートルにおよぶ過去最大級のサイクロンに襲われ、首都ホニアラのあるガダルカナル島から1000キロ離れた離島であるティコピア島の住民2千人の安否が確認できなくなっていた。

財政難で救援船の派遣が遅れるソロモン諸島政府に対して、オーストラリア空軍が即偵察調査を行い、かなりの島民の無事が確認されたものの、航空機着陸が不可能な小島に救援物資輸送の課題が残った。

そこで、トランスコミッティがオーストラリア政府に協力を申し出た結果、飛行艇一機の出動が1月3日に急遽決定したのである。
報告によると、現在はソロモン諸島の他の離島やバヌアツ領の島への救援活動に継続して参加しているらしい。

実はトランスアイランドの未来構想の中に、太平洋の真ん中に位置するという立地を活かして、太平洋島嶼国家間における情報とサービスのネットワーク拠点をつくろうという計画があり、海難救助や離島医療はその具体的活動領域になっている。

ミクロネシア・ポリネシア・メラネシアにまたがる太平洋圏の中で起こる不測の事態に対するスピーディーかつ効率的な対応のシステムを先進国との連携も含めて構築していこうという壮大な計画だ。

つまり、今回の救援活動はその可能性を占う大きな意味を持って行われることになったのだ。

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冒頭で「行き過ぎた文明」と記した。
問題は何が適正であるかを人類が見極めていくことだ。

自然の猛威を前にしては、いかなる文明の力も無力であるが、一機の飛行艇を飛ばすこと、そして運ぶ物資によって救う被害者の心と体の総量を増やすのは文明の力だ。

人が空に憧れ、そこへ飛躍すること自体に罪はない。
1903年、かのライト兄弟が初飛行に挑戦した。
彼らは青く広がる空の向こうに、どんな未来を夢見ていたのだろう?
そして、それから100年、その夢を引き継いだ文明は何処を目指し、何を飛ばしてきたのだろう?

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

この物語を創作していた段階の僕の頭の中に「空飛ぶクルマ」などという夢の乗り物は全く存在していなかったのに…

なんと今では毎週のように講演会や勉強会に招かれて「空飛ぶクルマ」の話をしています。それも毎回ライト兄弟のネタを交えて航空ロマンを語っています。

20年間に「100年前」と記したのだから、今ではライト兄弟の偉業から120年。
この20年間で人類はどこまで文明的に進化してきたのか?と考えれば停滞の時間だったような気がしますが、20年後はどうやら「空飛ぶクルマ」が実用化の時代に入っていそうです。

ただし、その頃に僕が生きているかは微妙です。
いや、儚き島の40年後回顧録をアップし続けているかもしれません。
/江藤誠晃




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