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065.手記の持つ物語性

2003.5.13
【連載小説65/260】


手記の持つ物語性。
そんな可能性について考えている。

『儚き島』の連載も今回で65回を重ねる。
週1回のスローペースに加えて、ネットワーク配信だから量的ストック感覚が希薄になるのだが、400字詰めの原稿用紙に換算すると既に600枚以上。
単行本にすればかなりの厚みになるはずだ。

ミスターGとの会話の中で、彼がこの手記を何度となく読み返し、僕の記したフレーズの幾つかを諳んじるまでに記憶してくれていたことに驚いた。

そう、書き手である僕が、その時その時、見たことや聞いたこと、感じたことを発し続けたフローのコンテンツも、読み手にとっては積み重ねられるストックのコンテンツとなっていることに初めて気づいたのである。

手記のもたらす効果とは何か?
そして、それが物語として成立可能な所以についてまとめておこう。

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作家としての僕は、過去、主にフィクションとしての小説を書いてきた。
自らの内なる世界を外へ向けて表現する方法には、コラムやエッセイなどの直接的な執筆もあるが、それを一旦「想像」の中に引き込んで「創造」によって再表現する間接的な物語づくりを好み、自らのドメインとしてきたのだ。

そんな僕にとって、この島に暮らし、その日常をスロースピードで重ねる『儚き島』は異例のノンフィクション的取り組みであり、向かう姿勢に気負いがないこともあってか、創作感の乏しい作品だったといえる。

誤解を招いてはいけないので加えると、創作感が乏しいというのは、まるで呼吸するかのごとく重ねた営みであったということで、そこに文量や期間を決めて取り掛かる小説創作とは明らかに違うプロセスやスタイルがあったということだ。

では、僕にとってのノンフィクションである『儚き島』に内在する物語性を分析してみよう…

実は、少しスピードダウンしてもいいのではないかと、僕の日々にアドバイスをくれたミスターGが、『儚き島』に対しても、ひとつのアドバイスをくれたのだ。

「君の思うことを、君だけにかかわることをもっと自由に書けばいい」

というのが彼の言。

この手記のポジションは、トランスアイランドに関する文化エージェントによるオフィシャル文書であり、その内容は、ネットワークを通じて内外に発信されている。
ゆえに、本来なら客観的な視点、つまりはノンフィクション性が求められるはずだ。

が、当初から創作に何ら制約はなく、タイトルもテーマも内容も自由にどうぞというものだった。
よって、僕は自由に楽しく連載を続けてきた。

その『儚き島』に対しても、ミスターGは「もっと自由でいい」「もっと主観の領域に入っていい」と言う。
いや、むしろそこに期待しているとさえ語っていた。

自由に回を重ねる中で、僕があえて気遣ってきた点があるとすれば、主観と客観のバランスにおいて、やや主観をおさえて島民の中に共感として広がる部分を客観として記録しておこうというポジションだった。

僕、真名哲也は手記の発信者であると同時にトランス島民のひとりでもあるから、主観と客観、つまりは「個」の価値観と「全体(島)」の価値観の融合を肌で感じることができる。
ゆえに、全体の代弁者として機能しうると考えていたからだ。

が、ミスターGはさらに主観を前に出してほしいとする。

彼の言葉を借りるなら、総体としての島の成立は、成員個々の自立と自律のあとに生まれるものであってほしいから、手記そのものが「一対多」の「報告」活動になるのではなく、極めて私的な「独白」活動であればいいということになる。

私的独白を受けた島民個々の中で、それぞれの思いもまた主観によるオリジナルとして成熟していくはずだとも言う。

「君のありのままの日常が、私にとっては既に優れて興味深い“物語”だ。そしてそれを読む他者は同時進行する自らの物語を個々育んでいけばいい…」

そう語った彼の言葉の中に、僕は手記の持つ物語性を確かに感じた。

自らの存在が「内なる島」であるとすれば、他者と過ごす社会は「外なる島」だ。
そして我々は双方交錯の中にひとつの時代と空間をシェアしている。

僕は僕で「内なる島」のことをさらに主観レベルで記していこう。
そうすることで僕の「外なる島」も、他者の「内なる島」も育っていくのだろう。

実は昨夜、僕もひとりの読者気分で1年強の『儚き島』連載を全て再読してみたのだが、そこに感じたことがある。

既に過去となったストックとしての手記は、僕にとっても充分物語的であるということ。
そして、それは永遠に続くであろう長い物語にとっての、ほんのプロローグでしかないということだ。

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次週から旅に出る予定だ。
第1回のクロスミーティングに参加した戸田君から連絡があり、月末に沖縄で落ち合うことになった。
(フリーダイバーの戸田隆二君のことは第62話で紹介した)

彼の薦めもあり、「Talk with coral」のヒントを得るために、石垣島にあるWWF(世界自然保護基金)のしらほサンゴ村を一緒に訪ねてみることになったのだ。

今回は少し長い時間、島から離れてみようと思っている。
一度、外から客観的にトランスアイランドを見詰め直す時間を持ってみたいのだ。
時間を限定せず、片道切符で出かけることにする。
(もちろんこの手記はネットを通じていつものペースで重ねていく)

旅中、あえて「内なる島」と「外なる島」を逆転させてみることにしよう。
そうすることで、再びここへ戻った時に見えてくる「儚き島」があるはずだから。

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

小説を書くといっても短編や掌編がメインだった僕が長編作に挑もうと考えたのはなぜだったのか?

いや、このプロジェクトはインターネット上にネバーエンディングストーリー的な「片道切符の旅」的世界を創作しようというクライアントがあって始まったので、僕の意志で生み出した作品ではなかったのですが、振り返ってみると5年に及ぶ不思議な体験をすることができました。

「主観と客観」とか「内なると外なる」といった対局発想が僕の作品には多く出てきますが、この回あたりから表面化してくるのが「求心性と遠心性」です。

僕は基本的に内向的に自身を深めていく求心力の人間ですが、それを支えてきたのは旅を通じて広い世界を感じる遠心力の活用でした。

2008年あたりからの10年は意識して世界中を飛び回る遠心的生活を行いましたが、そのきっかけとして『儚き島』という求心的日々があったように思います。
/江藤誠晃


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