126.独立国家の可能性
2004.7.13
【連載小説126/260】
「集中」と「分散」。
21世紀ネットワーク社会の対立する2大キーワードである。
20世紀文明はある意味でその風呂敷を広げすぎた。
無限なる右肩上がりの成長という「拡大」思想は、世紀末にかけて現実から幻想へと転じ、経済停滞や環境問題、民族紛争が表面化した。
故に、そのリストラクチャリングとしての「集中」は必至なのかもしれない。
我が祖国日本においては、プロ野球の球団合併やリーグ再編が大きな話題だが、僕らの世代でさえ当然のスキームとして子供の頃から長年つきあってきた2リーグ12チームの構造が崩れるかもしれない。
いまや、あらゆるドメインが大きな岐路に立たされているということだろう。
数においても質においても「適正」をもとめなければならない時代。
一旦出来るところまで拡大した後に収縮し、落ち着くところが「適正」ということか…
一方で、ネットワーク社会は「個」を集団から解放することで、自由なパーソナル時代の到来をもたらしたといってもいい。
インデペンデントな個人がクローズアップされる時代であることは、上記の野球でいえばメジャーリーグで活躍する日本のスターを見ればいい。
彼らは常にチームの成員である前に魅力ある一個人であり、同様の傾向が政財界や芸能の世界においても顕著である。
個性輝く社会への「分散」傾向であるならば、21世紀の潮流として多いに歓迎されるべきものだ。
で、考えたいのが国家という枠組みのこと。
太平洋真ん中に暮らしてこの半世紀を振り返って見れば、島嶼国家群とは植民地政策という西洋による「集中」から、独立という「分散」によって生まれた広域パーソナル社会だ。
「南」だけではない。
ヨーロッパにおける各種紛争から生まれた小国家の混沌なども同様で、国家集合体としての世界は「分散」化傾向にある。
東南アジア諸国連合(ASEAN)や欧州連合(EU)といった枠組み、通貨単位ユーロの確立などを見れば世界に「集中」傾向もあるのではないか?との声も聞こえてきそうだ。
が、これらはビジネス界における合併や吸収とは異なり、「個」の「独立」が前提となっている。
つまり「集中」ではなく「連携」であり、「分散」を支えるサブシステムと考えたほうがいいだろう。
どれだけ財政難であろうと、政権が不安定であろうとも、国家の吸収合併や統合の噂は聞こえてこない。
つまり、国家が地球に解放されることで21世紀はその時を刻んでいくということだ。
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今週末から日本へ行く。
「大きくなり過ぎた島国」の第3回ロケで、目的地は隠岐諸島である。
(某ネイチャー雑誌の連載企画については第101話で紹介)
島根・鳥取両県の県境北方にある日本海上の隠岐諸島は「隠岐の島」というひとつの島があると誤解されることが多いらしいが、実際は複数の島による群島ゾーンだ。
では、小さな島から文明国家日本を再見する試みの候補地として隠岐諸島を選んだ経緯を説明しておこう。
テーマは、ずばり「独立国家の可能性」。
仮に遠い将来に現代の文明国家が「分散」の中に独立小国のネットワークへと形を変えていくと仮定して、日本におけるそのプロトタイプ最適地はどこか?という議論が、2月の島を選定する編集会議で展開された。
(詳細は第103話)
本土から比較的近い海上に位置しながら、そこが独立した国家になっても違和感のない場所。
そこだけを地図でクローズアップして見た場合に国家的雰囲気を醸し出す場所。
これらふたつの選考基準から隠岐諸島を選んだ。
ネット地図で日本の山陰地方にアクセスして、次第に隠岐諸島をクローズアップしながら見てみよう。
隠岐諸島は複雑な地形の3島で構成される西の「島前」と、空港もある大きく丸い東の島「島後」に分かれる。
島々の間には高速船とフェリーの海上航路が整備され、人と物資が行き交い、豊かな自然に恵まれ、歴史的文化遺産が数多く残る。
ここがひとつの国家であると仮定すれば、陸海の一次産業をベースに、多数のツーリスト迎え入れるリゾート機能も併せ持った楽園的諸島に見えないだろうか?
二次産業やエネルギー資源まで含めた完全独立国家は無理であろうが、そこは隣国(ここでは日本ということになる)との通商の中にバランスを保てばいいのだ。
ちなみに、大雑把な比較でいうと、面積がシンガポールの半分、人口はマーシャル諸島共和国の半分だから、独立国家の誕生があっても決しておかしくないだけの環境ではある。
(仮想であって、それを現地の人々が望むか否かは別問題であることは言うまでもない)
今回の取材は日本の中の隠岐諸島を訪れるのではなく、太平洋の遥か北西にある日本という国のさらに裏側に存在する小さな島国へ行く…、そんなつもりで出かけてみたい。
日本語と円は共通ながら、そこが明らかに別国家にもなりうるというオリジナリティの部分と可能性を探ってみようと考えている。
そして、そこに見える日本という国はさらに巨大なものであろう。
ここ数日、ネットワーク上でさまざまな情報にアクセスして隠岐諸島のイメージを膨らませている。
そこに感じるのは、自然の大きさと、人々のおおらかさと、島ならではのバイタリティ…
果たして、それらの明るい部分が本質なのか?
表層からは見えない陰の部分はないのか?
さまざまな想像と仮説を準備して旅立ち、現地でそれらを検証することにしよう。
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旅の巡り合わせというのは本当に面白いものである。
というのも、今回の旅先ではカメラマンの戸田隆二君と合流することになっているのだ。
実は、先々月の波照間島への旅後、日本に残った彼はある被写体を追って撮影の旅を続けている。
僕がトランスアイランドへ戻り、休息の日々を重ねた後にマーシャルに行っていたこの6週間、彼はその相手をレンズの向こうに追って、八重山から本土へと寡黙な北上の旅を重ねていたということだ。
つまり、それだけ戸田君の心を捉えたのであり、八重山の海におけるその存在との出会いは僕にとっても衝撃的な体験だった。
放浪のカメラマンと作家のふたりの男を虜にした、その被写体とは何者か?
何故、隠岐諸島でその存在に会うことが出来るのか?
そこのところは、次回に現地からの報告として紹介することにしよう。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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