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note90: パペーテ(2011.12.11)

【連載小説 90/100】

ゴーギャン終焉の地、マルケサス諸島のヒバ・オア島に滞在している。

首都パペーテのあるタヒチ島から1300kmの距離はエアー・タヒチのプロペラ機で約3時間。
空からのアプローチで驚いたのは、訪問者を寄せ付けないかのごとき荒々しい島々の存在だった。

寒流が流れるこの海域の島の周囲には珊瑚が育たないため、3日前までいたソシエテ諸島のようにラグーンに囲まれた穏やかなリゾート風情はなく、海面から直接切り立つ断崖絶壁の島が並ぶのだ。

ハワイでいえばワイキキビーチのあるオアフ島とナ・パリ・コーストで有名なカウアイ島の違いを思い浮かべてもらえればいいだろう。

ところで、ハワイと言えば1996年から2002年までの長期にわたって創作拠点をオアフ島に移して活動していたことを【note70】で紹介したが、僕は当時追いかけていたポリネシア先住民族のルーツを探る中でマルケサス諸島のことを初めて知った。

「全ての大陸から遠く離れ、太平洋の真ん中に並ぶハワイ諸島の民はいったいどこからやってきたのか?」

この問い掛けへの最も信憑性の高い答が「はるか南方3500kmの地に位置するマルケサス諸島から高度の航海術を持ち合わせた民が移り住んだ」というものだった。

前々回に触れた“ポリネシアン・トラインアグル”のことを思い出してほしい。太平洋上に巨大な三角形の文化圏を想定する時、その真ん中に位置するタヒチは西洋文明から見ればハワイ・イースター島・ニュージーランドの何処からもさらに“奥”に位置する辺境である。

ヒバ・オア島は“遥か遠く”の島でありながら、今やプロペラ機に乗れば誰でも訪れることができ、そこには快適なリゾートロッジも存在する。

だが、ゴーギャンがこの地に住処を移した1901年当時は西洋人にとって最果ての地だったはず。
ライト兄弟の世界初飛行の2年前だから空からのアプローチなどできるはずもなく、おそらく彼はタヒチ島からリスク高き航海へと漕ぎ出し、さらに“奥”に楽園を求めたのだ。

いや、それほどまでに彼は西洋文明から逃れたかったのであり、そのために他者を寄せ付けないほどの荒々しい島が必要だったと考えることもできる。

ただし、記録によるとヒバ・オア島の日々においても争いは絶えず、相変わらずの貧困と病苦と闘いながらゴーギャンは3年後にこの世を去ることになる。

結局のところ“楽園”を追い求めながらも裏切られ続けた彼にとって、安住の場所は唯一油絵を描くキャンパスという若い頃から向き合い続けた小さな世界だけだったということかもしれない。

そんな推測と共にゴーギャンの名作を見てみよう。
タヒチが舞台の作品群に描かれた南洋の風景と人物たちは野性的かつ活き活きとして美しく、そこに作者の苦悩や葛藤を見ることはない。

そして、ヒバ・オア島に滞在し、青い空を見上げ、風に吹かれ、波音を遠くに聞く僕たち現代の旅人が得るのはゴーギャンの壮絶な人生ではなく、絵画の中残されたのどかな時間の方である。

この島にもゴーギャン記念館があって彼の作品が展示されている。
もちろんレプリカではあるが“楽園の中の楽園”として旅する者の心を癒してくれる。

「もしゴーギャンが現代に蘇ってこの島を訪れたら?」と僕は再び想像する。

「自らが残した作品群こそが、求め続けた“楽園”だった」

100年の時を経て、そうゴーギャンが呟くことはないだろうか?

>> to be continued

※この作品はネット小説として2011年12月11日にアップされたものです

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