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note91: パペーテ(2011.12.14)
【連載小説 91/100】
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
1897年に貧困と絶望の中でゴーギャンが完成させたあまりにも有名な代表作は彼が西洋文明に向けて発した精神的な遺言だと言われている。
ボストン美術館が所蔵する縦139.1 cm 横 374.6 cmの壁画のごとき作品が2009年に東京国立近代美術館で日本初公開された際、僕は現物を見る機会を得た。
本人が遺言を意識して創作した作品だけあって、画家ゴーギャンの絵画表現の集大成であることはもちろんのこと、そこには彼の人生観や死生観が色濃く宿るオーラ的なものを感じ、まるで19世紀末のタヒチへ旅した気持ちで大作の前に長時間立ち続けたことを覚えている。
“偉大な人物の生涯を視座に世界や歴史を再見する”スペシャルツアーとして僕が企画する「ゴーギャン紀行」の旅はマルケサス諸島のヒバ・オア島から再びタヒチ島のパペーテに戻ってきた。
一連の行程を振り返ってみて、画家ゴーギャンの壮絶な人生を追う旅に、この名作の写真と詳しい解説書をガイド書として準備したいと僕は考えている。
文明社会から南洋の“楽園”(タヒチ島)を訪れ、辺境の島(ヒバ・オア島)へと足を延ばして再び同じルートを戻る旅は『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という哲学的な問い掛けとオーバーラップさせるに相応しいからだ。
ゴーギャンが私的な遺言として位置づけたこの作品のタイトルを「私」はでなく「我々」としたのは極めて示唆的である。
ゴーギャンは追い求めて答を得ることのできなかった問い掛けを自らの“武器”である絵画に封じ込め、後世を生きる全ての人、すなわち「我々」に残したのではないか?と僕には思えてならないのだ。
さて、スペシャルツアーをより複層的な体験とするための仕掛けとして、僕はツーリストに一冊の小説を副読本としてリコメンドすることも考えている。
サマセット・モームの『月と六ペンス』。
イギリス人小説家のサマセット・モームが僕の敬愛する作家であることは、これまでにも何度か紹介してきたが、彼の代表作であるこの作品は「平凡な株屋の主人公ストックランドが妻子を捨てて芸術の道に走り、西洋社会に背を向けてタヒチに渡り病苦と闘いながら壮麗な大壁画を創作する…」というゴーギャンの伝記から着想を得たストーリー。
ゴーギャンと同時代を生きたモームが『月と六ペンス』を発行したのは1919年でゴーギャンの死後16年。
その壮絶な人生の小説化を決意し、10年以上の月日をかけて構想を熟成させ、1916年のタヒチ旅行を経て書き上げたと伝わっている。
つまり僕の企画するスペシャルツアーとは“追体験”。
画家ゴーギャンの人生を小説家モームが追体験し、それらが複層する歴史を僕らがさらに追体験するということだ。
『月と六ペンス』の中にゴーギャンがモデルの主人公の生涯に触れたこんな一節がある。
「肉体を離れ、ひたすら新しい棲み家を求めて漂泊し続けていた彼の精神が、ようやくこの辺境において初めてその肉の衣を見いだした…」
『私はどこから来たのか 私は何者か 私はどこへ行くのか』
ゴーギャンの遺作タイトルの「我々」をあえて「私」に置き換えてみよう。
遥か太平洋の彼方、ポリネシアの中心に位置する島々を訪れ、自らに哲学的な問い掛けをすることで見いだす“衣”があるとすれば、それほど価値の高い旅はない。
もっとも、そんな企画を提案する僕自身がいまだその答を見いだせずにいる“旅の途上”であるのだが…
さて、次の目的地に向けて明日旅立つが、僕の中には既にひとりの偉大な人物が宿っている。
新たな人物紀行の始まりだ。
※この作品はネット小説として2011年12月14日にアップされたものです
※作品画像「Where do we come from? Who are we? Where are we going?」はパブリックドメイン
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