027.海の民のアイデンティティ
2002.8.20
【連載小説27/260】
ワークショップ報告(3)
子供の発想はいつもユニークで、でも、それがかなり的を得ていて、驚かされることが多々ある。
「日本の武士道みたいだね」
と、ジョンとワークショップを重ねていた島の子供が、ミクロネシアの伝統的航海術を評して言ったのである。
確かに、その根底に流れるストイシズムや孤高さと、長き時間をかけての熟成度は、航海術と武士道に共通するものだし、ミクロネシアの民も日本人も歴史を遡れば同じモンゴロイドの血を源流に持つ。
少年の直感は鋭く、洞察的なのだ。
実際のところ、ジョンに聞いた彼の故郷での航海術の訓練とは、まさに「道」と呼ぶに相応しいもので、日本語的に表現すれば「航道」だ。
そして、僕はそこに海の民の確かなアイデンティティを感じている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
トランスアイランドに来る前の数年、僕はハワイに住んでいた。
そして、その日々の中で国家や民族のアイデンティティというものを強く意識するようになった。
ハワイは、日本とアメリカ、つまりは東洋と西洋が交錯する場所でありながら、ハワイ自身がその二価値とは異なる濃密な文化を重ねてきたところだから、異なるアイデンティティを客観的に観察できるのと同時に、そこに暮らす僕に第三の価値観を与えてくれた。
加えてそこには、日系、中国系、韓国系、フィリピン系等の移民社会が複雑に存在し、世界各国からのツーリストが常に行き来しているから、ハワイは人種の坩堝であるのと同時にアイデンティティの坩堝でもあるのだ。
そんなハワイで得た僕のアイデンティティに関する考察は、
「国家は、その間口と奥行きの何れかを前面にアイデンティティを誇示しようとする」
というものだ。
間口とは「現在」における経済力や軍事力、発言力といったパワー。
奥行きとは「過去」から培ってきた歴史の重み。
例えるなら、アメリカが二百数十年という歴史の浅さ故に、間口の力によって国の威信を保とうとするのに対して、ヨーロッパの国々は、熟成された文化・芸術をその精神的より所にする… といった傾向のことだ。
もちろん、その何れが正しく、何れが間違っているということではない。
間口に奥行きを掛けた国家の総量のようなものにバランスがとれている限り、世界は種々雑多なアイデンティティを受け入れて存続し続けるだろう。
そこで問題となるのが、小国の持つパワーのポテンシャルの限界だ。
優れた伝統を持ち、独自の文化を重ねてきた国家や地域であっても、世界がネットされた現代、物理的な国土や人口という現実的な間口の小ささは、国際社会における大きなビハインドとならざるを得ない。
「生き残り」をかけるとすれば、そのアイデンティティをより色濃く熟成させ、際立たせるか、近しい価値観との中に有機的なアイデンティティの連携を求めるといった方向性しかないように思われる。
何れにしても、ミクロネシアの航海術は、世界に対等に立ち向かうに充分な精神的ストックのパワーだ。
いかにその間口を広げ、アピールしていくかの中に未来を模索すべきなのだろう。
それも「適正」の中に…
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
いかなる産業も、その根底に国家的アイデンティティというものがなければ、「本物」には育たない。
その意味において、ジョンの根底にある「航道」は、彼が模索するマーシャルの新たな産業のベースとして充分な強さと奥行きを持つ。
その後、ワークショップの中身は、航海術を核とするマーシャル流の新しい「観光」業を考えようということになった。
自然を相手に人が知恵と体力を駆使して行うアクティビティとしてのカヌーは、観光素材として優れて魅力的だから、我々もおおいに賛同し、その中身づくりのアドバイスを続けている。
南の島に興る産業が観光業であるのは、ごく当たり前の結論かもしれない。
が、その根底にあるのが訪れる側の安らぎや脱日常ではなく、迎える側が長きにわたって培ってきた日常の成果であることに大きな意味がある。
ジョンが「観光」産業を、自らのアイデンティティの延長に選んだプロセスをまずは評価すべきなのだ。
本来その地が許容する以上の人々や物資が往来し、残るのは少しのマネーと無数のゴミと、破壊された自然と文化…
近代の南洋ツーリズムは、常に北側の需要先行の中に位置し、供給側の自主・自立的な展開が許されなかった。
21世紀。
マーシャルに、持続可能な真の意味での「豊かな」観光は可能だろうか?
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?