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note33: マンダレー(2011.6.10)

【連載小説 33/100】

マンダレーの滞在はヤンゴンで宿泊した「セドナホテル・ヤンゴン」の系列となる「セドナホテル・マンダレー」で、ミャンマー最後の王朝となったコウバウン朝の王宮の南東に位置している。

残念ながら王宮の建物は太平洋戦争におけるビルマの戦いで、終戦間際の1945年3月に焼失してしまい、現在の建物は1990年代末に再建されたものである。

当時のまま残っているのは城壁と堀のみだが、ホテルの前から王宮の周囲を囲む幅約70mで一辺の長さが約3kmもあるこの堀が延びていて、その先に丘全体が寺院となっているマンダレーの聖地「マンダレー・ヒル」が見える。

昨日、標高236mのマンダレー・ヒルの頂上まで登った僕は、帰路に参道の階段から少し離れた場所に静かに建つ日本人慰霊碑を見つけた。

その慰霊碑が何なのかをガイドのミンさんに聞くまでもなく、そこには日本語で大きくこう刻まれていた。

ミャンマーで戦没された日本
ミャンマー・英国全ての人々が
懇親平等に安らかに永遠の眠りに
つかれることを祈ります


今年は1941年の太平洋戦争開戦からちょうど70年。
当時、現在のミャンマーであるビルマは日英決戦の地だったことを改めて思い知らされる慰霊碑である。

ビルマといえばあまりにも有名な『ビルマの竪琴』は、この時代を描いた小説だったはず。
確か、敗戦し捕虜となった日本軍の若き兵士が僧侶となってビルマに残り、戦争で命を落とした人々の霊を慰め続ける…、といった内容だった。

僕はこれまでにこのレポートでミャンマーのことを何度か「未知なる国」と紹介してきたが、これは戦後生まれの僕の小さな史観でしかなかった。

長き王朝の世が続いたビルマを19世紀に植民地化したのが英国であり、西洋による支配からの解放を名目に東南アジアの他国と共に占領したのが20世紀の日本である。

半世紀と少し歴史をさかのぼればビルマ(=ミャンマー)は未知なる国などではなく、日本ときわめて深い関係を持つ国家だったのだ。

ミンさんが日本人慰霊碑のまわりを掃除し続けている墓守を紹介してくれたが、おのれの史観の小ささを恥ずかしく思った。

今日はマンダレーから少し離れたザガインという王都を訪れたが、町外れの丘の上に日本人戦没者を鎮魂する「日本パゴタ」が建てられていた。
ビルマ戦線で戦った日本軍兵士は18万人にのぼるという。

愚かな戦争を起こした大国には「戦後は終わった」として、“負”の過去を忘れようとするむきがあるが、それは身勝手というものだろう。

戦乱の舞台となり翻弄された小国の片隅で敵味方の区別なく命を落とした人々の墓標を日々守り続けてくれる人がいることを知って気付く。
「戦後」とは終わるものではなく、風化していくものなのだ。
流れる時の中で相対的に小さくはなるが決して無に帰するものではない。

マンダレーでも「時空の旅」が僕を待っていた。


さて、明日バガンへ移動する。
実は僕の中でミャンマーの旅のクライマックスになるだろうと期待しているデスティネーションである。

マンダレーからエーヤワディ(イラワジ)川に沿って南西へ方角にあるバガンもまた王朝のあった場所。

ミンさんが手配してくれた船で1日かけて川を下る旅になるから、船好きの僕としては非常に楽しみである。

>> to be continued

※この作品はネット小説として2011年6月10日にアップされたものです。

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