016.多くを持たない幸せ
2002.6.4
【連載小説16/260】
「君たち北の民は技術を手に入れると、すぐに身の丈以上のものを得ようとする。その結果、食べきれない量の魚を得て、保存術や分配のための流通網、さらには他の人の余剰物とそれを交換するための複雑な手段、つまりはお金を生み出す。ところが効率や生産性を求めるがゆえのそれらに追われ、酒を飲む暇もない人ばかりじゃないか。こんな愚かしいことはない。我々は食糧に困ることもないし、酒を飲む時間が毎日たっぷりある」
以前ミクロネシアのとある小さな島で、ひとりの男と出会った。
熟練の漁師である彼は、その腕前をもってすれば、商売するに充分な釣果を得ることができるにも関わらず、その日の糧を得ると、早々と家に帰り昼間から酒をあおっている。
「もっと釣って商売すればいいのに…」
と勧めた僕に、笑いながら彼がそんなことを語ったのだ。
多くを持たない幸せ。
あの日以来、僕は心の中でそんなテーマを追いかけるようになった。
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「多くを持たない幸せ」がイコール「持つものが少ない」ということではない。
僕が思うのは効率とか凝縮がもたらす「ゆとり」のこと。
「nesia」がそのわかりやすい事例だ。
この魔法の箱(機械)?の中には様々な文明生活が詰め込まれている。
テレビ、オーディオ、電話機、電卓、時計…
文明国で部屋やテーブル上に点在しているこれらの機器は、「nesia」の中にその機能を全て網羅されてある。
加えて、様々な書物や雑誌、百科事典といった天井まで埋まるほどの本棚の中身も圧縮されてメモリーされているから、大きな書斎が手のひらの上に乗っているようなものだ。
書物はそれにとどまらない。
ネットワークに接続すれば巨大な図書館まで手に入れることが可能。
そう、出かけずして、画面上に親切な司書が登場し、目的の書物を瞬時に提示してくれるのだ。
在宅ながら手に入るサービスなら他にもある。
ネットワークなら、銀行や郵便局は順番待ちなしで手続き可能だし、通販にアクセスすれば大抵のものは購入可能である。
そうそう、今や会社さえも「出かけて行く」場所ではなく、ディスプレイの中にある仮想の空間と考えていい。
生活の機械化の行く末が、家屋大のロボットではなく、爪先ほどのICチップであったように、複雑多岐な文明生活の合理的処理法が、広範囲を高スピードで動き回る「動的」活動ではなく、コンパクトなPDAの中でこなされる「静的」な営みとなった現実。
「多くを持たない幸せ」とは、空間と時間のゆとりからこそ生まれるのではないだろうか?
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文明そのものを否定するつもりなど全くない。
その成果を存分に享受して、今の生活があるのだから…
ただし、右肩上がりの成長を永遠のものとする感覚は捨て去るべきだろう。
得るものを得たら、平行に推移する安定期があっていいのだ。
打ち上げた衛星は宇宙の高みに達したところで、重力にその身を任せて自ら動くことなく地球の周りを回転し続ける。
「軌道に乗った」
僕らの文明生活にも、そんな感覚があっていいのではないだろうか?
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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