見出し画像

生命の網のなかの資本主義

生命の網のなかの資本主義
ジェイソン・W・ムーア著 
訳者 山下範久/滝口良 2021年

とてもしっくりくる内容でした。
以下に、一部を引用します。
稲の多年草化栽培と協生農法に関わっているので、関係する事を書きましたが、この本の内容はもっと本質的に深く全体を見て書かれています。
いいと思われたら、ぜひこの本を読んでいただけましたら幸いです。

すなわち文明を人間存在だけからなるものとみないで、「人間存在のサンゴ礁」としてみたいのだ。システムの物理的構造、ものの見方、そして生産の方法は、日々の生命活動、そして世代間の生命の循環を再生産する無数の生物から生まれてくるのだ。

本書では、自然は主に三つの形態をとる。「人間の組織」「人間以外のものの様々なフローや関係、諸々の実体」そして「生命の網」である。これら三つは独立ものではない。むしろ相互に貫入し合っており、歴史=地理的な時代の変遷のなかで、その境界と布置はシフトしている。 最後の点はきわめて重要である。自然は「ただそこにある」ものではない。それは歴史的なのだ。

対価の支払われていないはたらきの収奪はきわめて重要であり、搾取率の上昇は「安価な自然」―特に労働力、食糧、エネルギー、原材料という「四つの安価物」―を収奪することから得られる果実に依存しているといえる。

資本の生産が、資本主義の戦略的軸足なのであれば、蓄積は、その強度を強めつつ、この星のはたらき/エネルギーの収奪を通じて展開してきたことになる。そのような収奪—安価な資源の収奪(「蛇口」の側の収奪)はもちろんだが、安価なゴミ出しというかたちの収奪(「排水口」側の収奪)も含めて—は、資本を「価値」として生産しているのではない。それは関係や空間、はたらき/エネルギーを生産し、それによって価値が可能になっているだけである。資本主義は確かに商品関係を一般化する。しかしそのような商品関係の一般化の実際の程度は、一般化の範囲が絶えず拡大されること、つまり対価の支払われないはたらき/エネルギーの収奪に依存している。

自然は保護されもしないし破壊されもしない、ただ変容しうるのみである。

あらゆる生命は環境をつくる。あらゆる環境は生命をつくる。

資本とは、動きの中の価値であり、自然の中の価値である。ゆえに自然由来の土壌の豊度が「固定資本の増加として作用する」ということもありうる。資本蓄積の分析に対する社会-生態学的な示唆に満ちた見方だ。

スーパー雑草現象は、創造的であると同時に破壊的なものだ。それが創造的であるというのは、遺伝子を組み換えられた大豆やその他の作物には不可欠のラウンドアップ・レディの除草剤(グリホサート)から生き延びるべく、雑草が進化したという点である。

スーパー雑草現象は、雑草だけにとどまらない。抗生物質が効かない薬剤耐性を持った菌の発達は、食肉産業複合体と西洋医学のモデルに促されて、「薬の効き目を1世紀前の水準にまで後退」させかねないほどに進んだ。

この破壊の事例の中では、蜂が陥っている窮状と未だメカニズムの明らかでない「蜂群崩壊症候群」が示唆的である。現代の先駆けとなる蜂のコロニーの崩壊が持つ真の意味は誰にも理解されていない―それは予測不可能で無軌道な、未知の方向に向かう危機であり、誰もが目にしてはいても、誰も(いまだ不完全にしか)真の意味では理解してない。

有機農業、都市農業、コミュニティー支援農業、そしてゲリラ農業はいまだ小さな一部を占めるに過ぎないが、確かな成果を上げつつある存在である—それらは多国籍企業の食品と資本主義が生み出すもの全般への反乱である。

1492年に始まる資本主義の歴史、そしてそれと絡まりあったジェノサイドとエコサイドの歴史は、環境破壊、大量殺戮、そして資本主義に乗っ取られた帝国によってつくり出された利益創出の機会といった、単に「物質的」な次元にはとどまらない。それは、不断の資本蓄積のためのこの惑星の生命を管理する権限を、帝国とブルジョワジーに与えてしまうよう特に設計されたイデオロギー的モデルによってはじめて機能する歴史でもあるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?