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Africaを一年間旅する

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2002年から2004年まで、約一年かかけて旅したアフリカ旅行のアーカイブ
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#バックパッキング

キリマンジャロに登る

あこがれの山、キリマンジャロに登頂した。 標高は5,895m、文句無しのアフリカ最高峰である。 山頂で朝日を眺めた、眼下には巨大な氷河が見える、でもここがそんなにも高い場所だとはイマイチ実感がない。気温はマイナス15℃、それにしても寒い。 下山時、山頂を目指す人々と何度もすれ違う。皆、薄い空気の中をつらそうに登っている、その中の一人、白人女性が話し掛けてきた。 「山頂から来たの?」 そうです、と答えた。 「まあ!じゃあ登頂したのね、私も早く上に行きたいわ。頂上はさぞ素敵だっ

ケニア山に登る

アフリカ第二の高峰、ケニア山に登る。 ご来光を見るために早朝は真っ暗な中をヘッドランプを点けて登ったのだが、ふと足を止めて今いる状況を眺めてみると、笑いが込み上げてきた。 標高は4800m付近、ちょっとシリアスな北壁ルート、気温は氷点下で靴はスニーカー、ガイドもポーターもなし、下に落ちたらまっさかさま、おれって馬鹿だなあ、はははーって思った。 しかもルートをちょっと間違えて、下からあがってきたグループに「そっちじゃないぞー」って教えてもらった。だって、暗くてみえないしね・・・

エチオピアで入院

突然病院に入院することになった。アフリカはエチオピア、首都アジスアベバでだ。 一週間前ラリベラでかかった風邪が完治せず、咳がひどく肺も痛く、熱もぶり返したので病院に行ったのだ。5分もかからない軽い診察の後、医者は言った。 「じゃあ2、3日入院しよう。」と。 病名は不明。 そこは空港のそばにある、日本大使館の紹介の外国人行きつけの病院。保険が効くので、部屋は1等、シャワーTV付きのプライベートルーム。 でもね・・・ シャワーのお湯は出ない、排水溝は詰まっている、すぐに停電する

古代人の霊とピラミッドで年越しする

誕生日はテントの中で迎え、当日はチャドのバス停で終日バスを待って終わった。クリスマスイブも本番も、バスやピックアップトラックの荷台で過ごし、砂漠に野宿して終わった。すると、年末年始、年越しの瞬間は特別な場所で過ごしてみたいと思ってみたわけで。 向かった先はスーダンの首都、ハルツームから北上したピラミッドだった。そう「ナイルの賜物」はエジプトだけでなく、ここスーダンにもナイル川に沿ってピラミッドを残したのだ。 観光客もいなく、入場料を徴収されることもなく、それは砂漠の中にひ

大移動 -カメルーンからスーダンまでの11日間 -

カメルーンの首都ヤウンデより、スーダンの首都ハルツームまで一気に移動してしまうことにした。間にはチャドが入っている。 ↑試しにgoogle mapで検索してみる。4,000kmと出た。おそらくこんなルートだった。 人生で3本の指に入るひどい移動だった。かつて自転車旅行をしていたときに、「ヘン!バスや電車での移動なんて楽勝だよ。座っているだけだろ」と思っていたけれど、その考えを覆す日々となった。 チャドには大した見どころがなく、スーダンの首都に行ってケニアのビザを取る必

伝説のトゥンブクトゥへ

ガンビアのジャンジャンブレからマリ共和国の首都、バマコへは目一杯移動して、丸3日かかる。うぉ~、長~! バマコは首都だし、ちょっとした都会を期待していたのに、何もなかった。どっかの西洋人が「街じゃなくってただの大きい村だ」と罵声を吐いてたっけ。 アフリカの都会は本当に何もない。トホホだ・・・イランやパキスタンの都会で何にもないなーと嘆いていた自分はかわいかったのだなと今になって思う。 バマコからアフリカのベニスと呼ばれるモプティへ。期待するまでもなくベニス感はゼロだった。

セネガンビア

モーリタニアからセネガルへ入ると景色は一変した。砂だけだった大地から緑の連続。ああ木々がなんと心に安らぎを与えてくれることだろうか。大地が生命でみなぎっていた。サハラ砂漠は終わったのだ。 フランスの植民地時代の町サンルイを経て、首都ダカールへ。 物価が高い高いと噂の西アフリカだが、残念ながらそれは事実で一日目の夜は一室22ドルの部屋しか見つけられなかった。 翌日、娼婦宿を除けば、おそらく街で一番安いであろう部屋を見つけたが、それでも一室2,000円もした。 この西アフリカの

サハラ砂漠を超えて南下する

モロッコのマラケシュから4日かけてサハラ越え。 マラケシュから西サハラのダクラへは2日、西サハラは今もモロッコからの独立を主張している紛争地帯で今も地雷が多数埋まっていて、外務省からも渡航自粛勧告が発令されている。モロッコの警察や軍による取り締まりも厳しく、検問の度に外国人である僕や、アルカイダと勘違いされた現地のヒゲモジャの男などはバスから下ろされて、尋問を受ける。なんとこの検問は7回も行われた。ゲンナリ・・・ ダクラから南は公共の交通機関は皆無に等しい。このサハラ砂

さらばモロッコ

モロッコに船で入国後、タンジェからは首都ラバトへ。ラバトでモーリタニアのビザを取り、メクネスへと向かう。世界遺産に指定されているメディナ(旧市街)はたいしたことないが、ムーレイイスマイルの廟は美しかった。モロッコのイスラム遺跡はイランやシリアのそれと比べると栄華にかけるが、モロッコならではの黄色やピンクの色使いがポップでいい味を出している。 メクネスからはモロッコ最古の都市、フェズへ。なるほど、世界最大のラビリンスと謳われる、フェズのスーク(バザール)はでかいでかい。こ

北アフリカ最高峰に登る

モロッコの最高峰トゥブカル山に登ることにした。 マラケシュから登山のベースとなる街、イムリル(Imlil)へと向かう。ここにもボリ男たちがいて現地人の1.5倍くらいのお金を請求された。モロッコはどこへ行ってもそうだ。5円10円でもボッテくる。毎日ダンコとしてボリ男と戦っているが、それでも毎日ぼられている(笑)。 今回の登山は地図もなし、ガイドもなし。日本の常識ではそんな状態で4,000m峰に登るなんて無謀だが、まあ簡単だってガイドブックに書いてあったし大丈夫だろう。 イムリ

スペインからアフリカへ

スペインの港町アルヘシラスから3度目となるジブラルタル海峡を渡る。左手にはイギリス領ジブラルタル、右手にはヨーロッパ最南端タリファを望む。どちらも5年前に訪れた町だ。港を出るとすぐに、遠くにアフリカ大陸が霞んだ。イルカが僕のアフリカ行きを歓迎するかのように、ジャンプをしながら船に併走していた。 3時間後、船はモロッコの港町タンジェへと入っていった。忘れもしない Shit City。5年前、偽ガイドに危うく睡眠薬を飲まされそうになった町。船から一歩出るとそこには大勢のアラビア

シベリア鉄道に乗ってアフリカへと向かう

2002年8月27日早朝、列車でピレネー山脈を越えた。すると急に車窓から光が差した。目をやると、そこには朝日に輝く地中海が見えた。 今日地中海と再開した。あの向こうにはアフリカ大陸が横たわっているのだ。またスペインに戻ってきてしまった・・ モンゴルから僕はモスクワへと向かった。シベリア鉄道である。モスクワまでモンゴルから101時間、4泊5日。ステップの大地を走り、世界一大きい海のようなバイカル湖を過ぎ、タイガの森を突き抜けた。 なんて贅沢な時間なのだ!と最初は思った。5日間

日本から中国、そしてモンゴルへ

2002年7月18日、自宅を出発した僕は大阪行きの夜行バスに乗っていた。大阪から中国行きの船に乗船するためだった。行き先は上海。本来なら天津行きの船に乗るはずであったが、予定の船が台風に計器をやられてしまい、急遽行き先を上海に変更せざるをえなくなったのだ。上海まで船で50時間。そこから1200キロ離れた北京へ。 北京からはシベリア鉄道でモンゴルのウランバートルへと向かう。 あまり知られていないかもしれないがシベリア鉄道には3つのルートがある。 どれもモスクワを目指すことは変

きっかけ

「フロンティア」「未開」「秘境」 ワクワクするそんな言葉が大好きだった。 フィリピンに行ったときも、ガイドブックに「最も未開の地はパラワン島」と書いてあっただけで、そこに行くことを決めた。アメリカではアラスカ、日本では知床、シリアでも、ヨルダンでもエジブトでも、僕は秘境を欲していた。 そんな僕にとって、最も未知でもっともエキサイティングな地であり続けたのが、心の中のアフリカだった。 アフリカ大陸を旅するのが夢だった。イスラム教徒がメッカに特別な感情を持っているように、いつか