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遂に旅の入り口へ -ウズベキスタン記3-

5月27日
アザーン(イスラム教の礼拝の呼びかけの放送)の音で目覚めると、日の出だった。時計を見ると4時半過ぎ。日の出は日本よりも随分早い。夕日よりも明るく鮮やかなオレンジの太陽が地平線を染めている。荒野の地を列車はひたすら走っているようだ。昨夜よりずっと過ごしやすくなった寝台に身を起こす。今はトルクメニスタンだろうか?この路線は恐らく旧ソ連時代に敷かれたせいか降車駅ヒヴァの手前でしばらくトルクメニスタン内を走るらしい。
車内は乗客が減り、幾分静かになっていた。同じくアザーンで目を覚ました友人が降りてきて、朝日の写真を撮っている。通路は何故か人が行き交っている。後から気づいたが、ゴミを捨てに行っていたようだ。ウズベク人はキレイ好きのようで、皆降車前にリネンをまとめ、ゴミを捨てていく。終点前に車掌が回ってきた時には、車内は乗車時のように片付いていた。身支度を整え昨日の残りのナンを食べる。終点一駅前のウルゲンチを過ぎ、荷物もまとめた。終点ヒヴァには7時過ぎに到着予定。駅には友人が手配してくれた今夜泊まるキャンプから、迎えが来てくれているはずだ。
ガイドブックで見た遊牧民のテント。今夜の宿は、砂漠近くのそのテントだ。迎えも頼んだので、行きすがら古代の遺跡にも寄ってくれるらしい。しかし迎えが果たして来ているか。こちらに着いてから友人は確認のメールを送ったが、どうも送信されていなかったらしい。

車窓からの朝日 
降車前の車内 キレイに片付いている


15時間の長旅の末、遂に終点のヒヴァ駅に着いた。晴天の中次々に残りの乗客が降りていく。私達もその流れに乗り、ホームに降り立った。朝の澄んだ空気の中、駅前に見える遺跡はその輪郭を際立たせている。いよいよ旅の始まりだ。駅の写真を撮りながら、テンションは爆アガリ!テントまでは数時間のドライブ。トイレを済ませ、ドキドキしながら駅から出ると、1人のウズベク人のおじさんが声を掛けてきた。「ユルトキャンプ?」「イエス」するとおじさんはそばに停めてあった赤い車のトランクを開け、荷物を入れ始める。「アー ユー オタベック?」友人がメールでやり取りしていた人の名前を問いかけた。「オイベック。ファーザー」彼はカタコトの英語で答えてくれた。メールをくれた人のお父さんらしい。なんと、迎えはちゃんと来ていた。海外旅行で個人手配をしたとき、時間通り来るかが一番不安だ。遅れて来るならまだいい方で、場合によっては忘れられる。更に今回は確認メールも送れなかったのに…私達は感激で飛び上がりそうなのをガマンしながら、顔を見合わせ笑っていた。
彼の車に乗り込むと、鈍いエンジン音を響かせて車は駅から滑り出した。
整然と舗装された町中をドンドン進んでいく。道路沿いには新しい大きな石造りの家が整然と並んでいる。新しい住宅地だろうか。そのうち道路沿いは綿花畑に変わり。やがて荒野に進んで行った。大きな橋に差し掛かった時、友人が呟いた。「アムダリヤ川かな?」ウズベキスタンを走る2大河川のひとつらしい。その声が聞こえたのか、オタベックが「アムダリヤ」と言って橋の対岸で車を止めてくれた。雄大な川を写真に収めながら、改めて辺りを見回す。思ったより緑が豊かなことに驚く。土地は荒涼と渇いているが、至る所に緑があるのだ。地下水でも豊富なのだろうか。

ヒヴァの駅前
アムダリア川


再び車に乗り込み、キャンプへと走る。やがて遺跡の入り口のようなゲートに差し掛かった。青空と共に写真を撮ると、更に進む。道路は次第に荒く穴だらけになり、かろうじて舗装しているという道を抜けた時、最初の遺跡に到着した。「ーー」入り口に車をつけたオタベックが教えてくれた。車を降りると、側の無人に見えた小屋から女性が出てきた。「20000スム」入場料はかかるようだ。お金を払い遺跡へと砂地の坂を登っていく。
そこは荒野に突如現れた古い土レンガ造りの遺跡だった。かなり風化されているが、それなりの規模の遺跡だったことが窺える。朝早いせいか私達以外は家族が1組いるだけだ。5、6歳ぐらいの小さな子ども達が、遺跡の造りなどお構いなく壁面を登っていく。私達は思い思いに写真を撮りながら、遺跡を探索していった。黄土色のレンガの屋根の残骸には鳥が巣を作っていたようで、私が入ると慌てて羽ばたいていく。時間の流れは遺跡の形を変えたが、今は自然の一部のように存在している。そんな人の思惑はお構いなしところが、私が遺跡に惹かれる理由かもしれない。

トプラクカラ


今は鳥の棲家になっている部屋


そろそろ車に戻ろうと歩き始めた時、遺跡を出ようとする別のウズベク人一家とはちあった。何か話しかけてきている。勘で「ヤポネ」と答えると、歓声が上がった。そもそも外国人が珍しいようだ。恐らく日本がどこかもわかっていないだろう。携帯を出し、一緒に撮る仕草をする。一緒に写真に入り私達も撮ってもらうと、彼らは車に戻り袋一杯のナンやお菓子を持って戻ってきた。私達にくれるらしい。ウズベク語でお礼を言って別れたが、彼らはいつまでも笑顔で手を振ってくれていた。

お菓子をくれたおばちゃん達
地元の子ども達は自転車で来るようだ


オタベックにもお菓子を渡し出発。15分くらいで次のトプラク遺跡に到着。ここはかなり修復がされているのか、比較的新しく見えた。藁を練り込んだ土造りの城壁が印象的だ。
小さな遺跡だったので、さらっと見て車に戻る。更に車で走ると、湖が見えてきた。ここでも車を停めてくれる。降りてみるとここはかなり観光客で賑わっていた。二重内陸国のウズベキスタンでは、湖もかなり珍しいのだろう。スカーフを頭に巻いたウズベク女性が1人、嬉しそうに水に入っている。私達が歩いていると、5、6人のウズベクおじさんの集団に話しかけられる。写真を撮られていると、やがて1人のおじさんの家族もやってきて、その内学校の遠足?でバスで来ていた先生や子供達にも話しかけられ、ちょっとした写真撮影会のようになっていた。ここに来ていた観光客はウズベク人ばかりのようだったので、やっぱり日本人は珍しいようだ。ちなみにこの撮影会は、これから泊まるキャンプでも続くことになる。

珍しい湖


ふと車を見ると、オタベックがそろそろと車にエンジンをかけたので、慌てて車に乗り込んだ。
いよいよ緑も無くなってきた土の大地を通り過ぎ、遂にキャンプに到着。目の前の丘の上にはアヤズカラ遺跡が聳え立っている。駐車場を通り過ぎ、車は私達が泊まる2つ目のテントの前で泊まった。車を降りオタベックが指差したテントに荷物を入れる。中に入ると、天井はかなり高くベットが3つあり結構広い。10畳くらいはあるか。刺繍のタペストリーやフリンジのついた織物の帯で装飾されていて、テントの雰囲気を盛り上げてくれる。

アヤズカラキャンプ
私達のテント
テント内部 
壁がしっかりしていて、昼は太陽の熱を、夜は冷たい空気を遮ってくれる


ちょっと疲れたので、真ん中のベッドに横たわり、入り口を眺める。入り口は私達の胸くらいまでの高さしかなく、閉めると暑いので開け放ってあった。外から入る真昼の日差しが、薄暗い中とのコントラストで目を刺す。眩しくて目を閉じると、半日以上の移動の疲れからか眠りに落ちていた。ふと目を覚まし起き上がると、友人がニヤニヤしながら「寝てたやん」と声をかけてきた。「落ちたわー」苦笑いしながら答えたところに、ここのおばちゃんらしき人がテントを覗き込んで来た。「ハロー。メイ?」友人の名前を呼ぶ。「イェス、イェス」「ランチ」「ナウ?」「ワン アワー」「オッケー」
時計を見ると11時半前だった。寝ていたのはほんの15分程のようだ。時間があるのでキャンプ内を散策することに。外に出ると周りには似たサイズのテントが他に9棟、それから他より大きなテントが2棟あった。その先に日除けのついた小上がりのような東屋があり、遺跡を見上げている。その隣には2連のブランコ、同じく遺跡を望んでいる。トイレは私達のテントの並びに男女別で1つずつ、その建物のサイドに手洗いの水道があり、これがこの施設のすべてのようだ。水シャワーはあるとガイドブックには書いてあったが、特に説明もなかったし私達も聞かなかった。日中は暑いが日が落ちると涼しいし、湿気がないせいか身体さえ拭ければあまり不快には感じない。
一通り見て回った後はさっきの東屋に戻り、ランチを待つ。乾いた風に吹かれながら遺跡を見上げる。このロケーション‼︎3月に思いついてから遂にここまで来たんだなあ。もっと言うなら、コロナ禍の中いつでも行けると思っていた旅行に行けなくなって、ずっとやりたい事は先延ばしにしちゃいけないと気づいてから、やっとここまで来れたなあと感慨に耽っていた。
そこにさっきのおばちゃん、ラニアさんが来てランチと言って大きなテントに案内してくれた。大きなテントは食事棟のようで、中はとても広く30人は余裕で座れそうだ。何列か並んでいるテーブルの右端の列に、食事が用意されている。床には座布団のようにクッションが置かれているので、そこに座った。テーブルを見ると、すでにナン、トマトときゅうりと生の玉ねぎ、チェリーとりんご、様々なビスケットやお菓子の盛り付けられたカゴが並んでいる。しばらくしてラニアさんが、かぼちゃのサラダと春雨のような料理を持って入ってきた。ポットのお茶も用意してくれる。早速取り分け食べてみると、どちらもディルがたくさん入っていて美味しい。何で味付けしているかわからないが、あっさりしていて好みの味だ。お茶はグリーンティと言われたが、ウーロン茶に近い感じ。ウズベキスタンはお茶文化で、しかも中東とは違い砂糖が入らない。日本と同じように、食事をしながら飲むのだ。「どっちも美味しいなぁ」「うん。あっさりしてて食べやすい。嬉しいー!」味わいながら食べていると、スープが運ばれてきた。野菜と牛肉がゴロゴロ入った、コンソメのようなスープだ。外は暑かったが、それでも温かいスープはホッとさせてくれて嬉しい。長時間の移動で疲れた体に染み入る味で、しっかり平らげた。
食事が終わってテントを出るが遺跡に行くにはまだ日が高く暑いので東屋へ。寛いでいるとラニアさんがもう一つの大きなテントから出てきて、声を掛けてきた。テントにおいでと言うことみたいだ。
テントに入ると、こちらはさっきのよりもさらに1回りは大きくて、西洋系のお客さんが30人くらいいた。陽気な音楽にのり踊ったり、話したりしている。「ダンス、ダンス」ラニアさんが私達を輪の中へと押し入れる。海外では基本場の雰囲気に乗ることにしている私は、目の前にいた浅黒い男性と踊り始める。横では同じく押し出されてきたここのキャンプの少年と、友人も踊り始めていた。テント内はエアコン‼︎も効いていたが、人の熱気で肌が汗ばむ。お客さんのほとんどは60代以上の熟年の方達だったが、みなさんイキイキと元気だ。曲が終わったところで話を聞いてみると、フランスからのツアーで来ていて、ここには遺跡見学とランチに立ち寄ったそうだ。こういった日帰りのツアーが多いと、ラニアさんも言っていた。私達が日本から来たと言うと、1人の男性が数年前に日本に行ったと言って良い国だと褒めてくれた。この後も数人日本を旅行した人に会ったが、みなさん口を揃えて褒めてくれる。日本人的にはいろいろと思うところがあるが、海外に出てみると日本を褒めれもらうし日本人だというだけで歓迎されたりもする。やはり日本は良い国なんだなと認識する瞬間だ。住んでいると分かりづらいことに気付くのは、旅行のいいところだと思う。何かの本で読んだが、旅行に出ることは新しい視点を手に入れることだとか。ならば日本人はもっと旅行に出た方がいいだろう。
一通り踊り終えてテントを出ると、東家に戻りひと息。遺跡に来る観光客を眺めるともなく見ていると、ウズベク人一家の様なグループがブランコの方に歩いてきた。トイレ前の駐車場は一般客にも開放されていて、そこに車を停めた一組がブランコに気付いたのだろう。私達を見たその人達は、例の如くこちらに話し掛けてきた。またまた始まる撮影会。

キャンプにはブランコも 左にあるのが東屋


30分くらいしてやっと解放され景色を眺めていると、コーヒーのドリップパックを持って来ていたのを思い出す。ちょうど通りかかったキャンプのお兄さんにお湯をお願いすると、ポットと湯呑みを持ってきてくれた。早速お湯を注ぐと、辺りにいい香りが漂い始める。気温はまだまだ暑いが、雲が出てきて薄日になったお陰で汗もひき、コーヒーの温かさが嬉しい。砂漠でコーヒー、飲みたかったんだー。何て贅沢。友人が旅行メモを書いていたので、私もマネして書き始めた。コーヒーも飲み終えた頃「そろそろ行く?」友人が言った。「そやね」私は短く返し、テーブルを片付ける。メモもウェストバッグにしまい、遺跡に向かって歩き始めた。キャンプの前の道を渡ると、砂漠のような砂地の中に小石の転がる固い坂道が続いていた。足を滑らしながら登っていくと、やがて今までの遺跡でも見たような壊れた土壁のようなものが見えてきた。そこを通り過ぎさらに坂を上ると。やっと開けた場所に出る。遺跡のメインセクションについたようだ。左右に穴の開いたトンネルのような土づくりの通路が続いていて、目の前は窪地になり何もない広場が広がっている。昔は回廊のように広場を囲っていたのかもしれないが、今はL字型に残っているばかりだ。通路を右回りに歩いていく。遺跡は丘の上にあり、周りにはキャンプ以外何もないので地平線が見渡せる。以前スリランカで行ったシーギリヤをふと思い出した。シーギリヤは森の中にポツンとある一枚岩の遺跡だが、同じ高台のポツンと感がちょっと被るのだ。ふとキャンプの方を見ると、遥か彼方に薄暗い固まりのような物が見えた。竜巻か?こっちに来ないことを祈りながら、遺跡を歩き続ける。土の通路を通り、砂を滑り降り、写真を撮り。入り口に戻りもう一度キャンプの方を見ると、固まりは消えていた。良かった!


荒野にある遺跡


ふと下を見下ろすと、どこからともなくラクダが何頭か歩いていた。キャンプの方に向かっている。キャンプで飼っているのだろう。戻ると程なくして、キャンプには何頭ものラクダが集まっていた。あちこちから牛の鳴き声が少し高く濁ったような、ラクダの鳴き声が聞こえる。敷地を散歩しながらラクダの写真を撮っていると、あっという間に夕食の時間がきた。まだ辺りは明るいがテントで夕食をいただく。夕食はランチに牛肉の煮込みが追加されていて、ボリューム満点。こちらも美味しかった。ウズベク料理は油っぽく日本人にはもたれるとガイドブックには書いてあったが、今のところ何の問題もなく食べられている。ヨーロッパの食事よりむしろ口に合うくらいだ。

夕食 
ナンとサラダ、肉料理の食べ方がスタンダードなようだ
砂漠の夕日 コレが見たかった


食事の後外に出ると、ようやく日が傾いていた。砂漠の向こうに、徐々に太陽が沈んでいく。またまた東屋に行き夕日を眺める。薄曇りの地平線が少しずつオレンジ色に染まっていく。そのうち夜空の藍色が濃くなり、夕日を飲み込んでいった。最後の一筋がラクダを照らし、そのシルエットを闇に浮かび上がらせる。この景色は今もハッキリと脳裏に焼きついている、とても印象的だった。やがて星が出てきたので寝転がって夜空を見るため、そこにあったクッションを持って隣の屋根のない小上がりのような所に移動する。そのまま星空を待って友人と話していると、キャンプで働いている女性が話しかけてきた。日中はまとめ上げていた髪を今は下ろしている。彼女は私達がウズベク語がわからないのも構いなしに、何やら身の上話をしているようだ。時々大きく突き出たお腹を触りながらべべと言っているので、赤ちゃんのことやその父親のことを話しているのだろう。私は聞くともなく聞いていたが、友人はところどころ質問を挟みながら聞いている。会話が成り立っているかは謎だが、相手と向き合おうとするところは本当に尊敬する。小一時間は話していただろうか。やっと彼女が去り、私達は小上がりに横になって空を見上げた。薄曇りの空だったので満点の星空とまではいかなかったが、星が散らばった空は美しく、私達は無言で空を眺め続けた。

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