幻のデザートをつくる
若い頃シンガポールにいたことのある夫は、当時食べたものの話をよくする。東京でも、まだ東南アジア料理のお店なんてそんなになかった時代のことだから、何もかもが初めての、驚きに満ちた経験だったに違いない。
そのなかに、最近ではめっきり見かけなくなったデザートがある。アイス・ゼリーだ。レモングラスの風味がするゼリーに、かき氷をのせて甘いシロップをかけたものだという。
誰にでも作れるほど簡単なのが、かえって商売を難しくしたのか、ホーカーズ(集合屋台街)でも、ショッピングセンターのフードコートでも、アイス・ゼリーはまず見かけない。30年ばかり前には、ごくありふれたものだったと夫は言うのだけれど。
「残念だなあ。さっぱりしていて、本当においしかったのに」
夫があまりアイス・ゼリーを懐かしむものだから、シンガポールで出ている本のレシピを参考に、作ってみた。夫がそれを気に入ってくれたので、うちでは週2回ほどゼリーを作り続けている。
でも、わたしはシンガポールのアイス・ゼリーを食べたことがない。自分で作りながらも、これでいいのかなあ、と何となくすっきりしない気持ちがいつもあった。本物のアイス・ゼリーってどんな味がするものなのだろう?
感動の対面、のはずが
あるとき、郊外に出かける用事があり、高層団地街に足を踏み入れた。
土地が狭いシンガポールでは、億単位の一戸建てに住めるお金持ちを除いて、団地に住む人がほとんどだ。団地内には、生活に必要なものはたいていそろっていて、市場やスーパーマーケット、フードコート、雑貨店などが集まる場所がある。その中にある小さな甘味屋さんで、ようやくアイス・ゼリーを見つけた。
注文して席について待っていると、アイス・ゼリーがやってきた。
これが、アイス・ゼリーなのか! はやる気持ちを抑えて一口食べてみる。
……あれ? 人工的な色と香りは、レモングラスのものではない。
夫があれほど懐かしんでいたのは、単に青春の追憶のためだったのだろうか?
「ねえ、これが、あなたが好きだったゼリーなの?」
「いや、違う。こういう味じゃなかった」
愛想よく迎えてくれた店主に尋ねると、疑問は簡単に解けた。
今は、水に溶かして固めればできる、ゼリー・ミックスを使っているのだ。
急速に経済発展したシンガポールでは、不動産を始め、何もかも値段が上がった。2007年には、ついに一人当たりの国内総生産(GDP)も日本を越えてアジアのトップに躍り出た。
家で誰でも作れるようなものには、付加価値はつかない。となると、人件費を抑えるためには、工場で大量生産したものを扱うか、廉価な加工品を使う方が合理的だろう。この30年間に、同じ理由で消えたものが、いったいどれだけあるのだろう?
自家製アイス・ゼリーのレシピ
レモングラスは、全体の3分の1くらいの根本を使う。
包丁で叩いてから、弱火でじっくり煮出すと、薄黄色のレモングラス液ができる。
次に、糸寒天を弱火で煮て溶かし、30分ほど冷ます。
寒天の粗熱が取れたら、レモングラスの煮出し液と合わせて、冷蔵庫で冷やす。手順は、これだけだ。
わたしたちの好みに従って、うちのゼリーはやわらかめだ。
仕上げに、やし砂糖を煮詰めてつくったマラッカ砂糖のシロップをかける。
そして、カラマンシー(地元のライム)を絞ってデザートグラスに盛り付けたら完成。
さわやかな柑橘系の香りが、レモングラスの香りとよく合う。
華人のおばさまたちには好評
たまたまお客が来る機会があったので、自家製ゼリーを出してみた。
年配の華人のおばさんたちなので、もちろんアイス・ゼリーを知っている。「あら、懐かしい! むかし、よく食べたわよね」
「そうそう、本当に久しぶりだわ」
― 最近見かけないんですが、どこに行ったら食べられるのでしょう?
「ないない、今はどこにもないわよ!」とおばさんふたりは声をそろえる。
「そうねえ、食べたかったら自分で作るしかないわね」
地元の人が作らなくなった昔のデザートを、外国人のわたしが作っているのも不思議なものだ。アイス・ゼリーを懐かしむ夫のために、週末に買い物に出かけるときには必ず、レモングラスを買うことにしている。
家庭のおやつは、家族の満足のためにある。
手間と時間はそれなりにかかるが、効率を優先して考える必要がない作業をわたしは楽しんでいる。
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