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企画「第2回 #手書きnoteを書こう」に参加して

先日、「第2回 #手書きnoteを書こう 」企画に参加した。

企画者はだいすーけさん、noteでは、きれいな写真の投稿でご存知の方もいると思う(本記事の見出し画像もだいすーけさん作)。

実は、わたしは自分の字が下手なのを気にしている。
親がアマチュアの書家なので、本気で勉強する気があるなら恵まれた環境にいたはずなのに、わたしは稽古をしなかった。
関係が近すぎると習い事は難しいということも理由のひとつだが、習う側の熱意が、教える側のそれと差がありすぎると、技術とこころの受け渡しはうまくいかない。
で、修練の賜物の手本が身近にあった分、余計に自分の下手さを意識することになり、自身の怠惰や不勉強を恥じる構造から抜け出せなくなっていた。

それでもこの企画に参加してみようと思ったのは


じゃあ、わざわざ面倒くさいばかりの、手書きの良さって何だろう。 それは、「気持ちが伝わること」

という告知の文面に惹かれたからだ。

日々、圧倒的な量の情報や広告が生まれては消えていく今、わたしたちはせわしなく読み流すことに馴れ過ぎているのではないか

ソーシャルメディアに投稿して、脊髄反射のような速い反応はもらっても、「見ました」以上の意味がない「いいね」に、かえって傷ついた経験がある人なら、あえて手間暇かけた表現をすることの価値もきっとわかるはずだと思った。

表現を大切に考える人たちが集まって、少しの時間立ち止まって作品に向き合うこと、そして受け止めたことを大事に表現する場があったらいいな
―わたしが noteを書くようになったのは、そういう気持ちだったから、
「#手書きnoteを書こう 」には何か通じるものがありそうに感じた。

筆で「書き初め」をする習慣は大分廃れたけれど、色紙や祝儀袋の表は、やはり手書きだろう。謝罪や依頼のような場面では、デジタル機器を使う今でも、「直筆」が一定の価値を保っているのは、日本には書跡を尊んできた歴史があるからだ。それは、見やすく美しい書体の「デザイン」を超えた何かを、わたしたちが手書きの文字から感じるからだ。

今日、だいすーけさんが投稿された「企画まとめを終えて、今。所感を。」によると、「第2回 #手書きnoteを書こう 」には76作品も集まったそうだ。手書きで思いを表現してみようというこの企画が、それだけ多くの人に響いたのだろうと思う。

書き手として参加した人も、そうでない人も、手で書いた文字やイラストで作品を味わう面白さに惹かれて、いろいろな作品を読んでいると思う。
わたしも、時間のあるときに紹介された作品を読んでは、「スキ」したりコメントしたりを楽しんでいる。

ところで、企画者のだいすーけさんは、一編一編の作品を読むのはもちろん、コメントを付けてツイートし、8本のまとめ記事を発表されている。

自分史上最高なくらい「読む」ということについて真剣に向き合いました。

という言葉の通り、これだけの数の作品を、ひとつひとつ読んでコメントするだけでも大変な時間と手間がかかったろうと想像する。

わたしは職歴の初めが書籍編集者だったから、まじめに「読む」しんどさも、読んだものについて「書く」行為の難しさも、少しはわかるつもりでいる。

作品について書くということは、作者とそれを読んだ人の前に「自分の評価」を提示するわけだから、向き合う真剣さの度合いも違うと思う。

だいすーけさん、ありがとうございます。

締め切り前のぎりぎりでしたが、参加させていただいてよかった。ほかの参加者の皆さんの作品に出会うことで、豊かな時間を過ごしました。

「感謝と敬意の善き循環が、ぼくの目標」というだいすーけさんの想い、企画を通じてちゃんと届きましたよ。

素敵な企画への感謝を込めて、この記事を書きました。


*応募作品は、だいすーけさんのマガジン「#手書きnoteを書こう まとめ 」で読むことができます。


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