好きであること
ロマンチストである。
そういうことは寝てから言え。というのはごもっとも。誰もロマンチストであることを自ら言う人はそうそういない。ロマンチストであることをいいことにいじられ、言いふらされ、言いたくない人にまで広がって行くのはまっぴらごめんだからだ。と、私は思う。
ただ、それはなぜだろうか。ロマンチストであることでその人の何が変わるのだろうか。その人はその人であり、ロマンチストでなかったとしてもその人は変わらない。ただその人の考え方や生き方がロマンチストであること、ただそれだけの事実がなぜそんなにもいじる対象として浮かび上がってくるのか。人は誰しもロマンチストである側面は持っているはずだし、目の前の人がロマンチストでそのロマンチスト発言とやらを聞いて確かに、と思うことが全くないのか。それは嘘だと私は思う。
ならばそもそもロマンチストとはなんなのか。こう言う時に辞書を引いたり検索したりするのは正しいことだがあえてものに頼らずに考えてみることにする。私の考えるロマンチストとは、目の前の物事を、ロマンチックに考える人。あれ、ロマンチックって何。うーん、誇張。少し違うな。妄想。もっと違うな。単純に考えてみよう。ロマンチックな景色、ロマンチックな雰囲気、ロマンチックな部屋。なんだかいいホテルの最上階のバーが思い浮かんでしまう気がするが、ようはそういうことなのだろう。いつもとは違う世界、世に言われる美しいものが飾られ、美しい音楽が流れ、少し暗く落ち着いた、そんな雰囲気。ロマンチックとは多分こういうこと。
じゃあそれを人で表すならば。パッと思いつく言葉でうまくまとまった言葉はないけれども、漠然と「美しいと思うものを美しいと言える人」なのかもしれない。そもそも美しいという言葉を使う機会ってそんなにない。美しい花を見ても「綺麗」「かわいい」「良い色」という言葉を使って終わらせる。それ自体悪いことでもないし至極まっとうな表現だと思うから批判はこれっぽっちもできない。世間一般の美しい花を見た人がその花を褒める選手権堂々の第一位はおそらく「綺麗」だろう。美しいという人は本当に少ない気がしている。だからこそ、「美しいね」と言う人は、珍しさ満点で、「ああ、この人ロマンチストなんだろうな」と思わざるを得ないのかもしれない。ここまでをまとめるとロマンチストとは、美しいものを即座に美しいという言葉で表すあまり自分の周りにはいない珍しい人、になってしまうが、果たしてあっているのやら。
正解はないから、全国のロマンチストたちにはもっと堂々としてほしいと勝手に思っている。自分が美しいと思うものを自分の美しいという言葉で表現し、誰かに伝えたいと思うその気持ちは絶対に間違いではない。私も、自分の好きなものは好きと表現したいし、好きなものを好きと言えないところにいたいとは思わない。今の世の中は、みんながみんな好きなものを好きと言っていい時代になってきている。そしてロマンチストであることをあえて言わずとも、共感してくれる人がたくさんいるはずだ。
好きを好きと言えない悲しさと寂しさは計り知れない。けれどもいつか、いつか好きを好きと言える日が来ることを願い生きてきた。好きでいてよかった。それが今でいう「推し」というもので、同じものを推す人と繋がれる、共感しあえる、共有できる。そんな喜びとともに、自分の世界が華やぐのだから、もっと自分の好きを押し出すべきである。
なんてことを書いておきながら、自分は好きなものをうまく好きと言えない。共有したいけれども、誰からも理解してもらえないと思っている人間だ。今でこそ、少しずつ自分の好きを前面に押し出していけるようになったが、まだまだ最初の一歩はやはり重い。
いつか、この世が、ロマンチストだらけになりますよう。願いを込めて。
今日も好きを探して三千里。
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