気づいたらコーヒー屋さんになっていた。

 僕はいつからコーヒーが好きになったんだろうか。具体的な日にちはわからないが、つよがって深煎りのブレンドを飲み干した日が、はじまりだった。大量消費社会の歴史の中で、当然のように目の前に現れたそれは、とても苦くて、飲み口の分厚いマグカップの中に、誇らしげにゆらめいていた。
 その時僕は、間違いなくそのコーヒーより格下だった。わたしを飲める?と聞かれているようで、うん、美味しい、というような表情をしながら、僕はかろうじてその偉そうなコーヒーに対抗してみせた。
 苦くて、本当は好きでもなかったコーヒーを、今は仕事にしている。苦くて、本当は好きでもなかったから、仕事にできたのかもしれない。負けず嫌いな僕なので、きっとそうなのだ。
 ところで、コーヒーという液体は、98%ほどが水でできているらしい。こんなほとんど水みたいなものを、我々はなんと500円くらいで販売している。一枚のペーパーフィルターに、15gそこらのアフリカとか中南米からやってきた、粉々のコーヒー豆が乗せられ、我々は真剣な眼差しで熱湯を注ぎ、下から液体が抽出される(当たり前のことだが)。それがコーヒー屋の全てだといってよい。その3分くらいの営みに、人生をかけてもいいと思えるのだ。不思議なことだ。
 あらゆる偶然なる事象の重なりの中に、あなた達は今日のコーヒーを手にした。フルーティで柔らかい質感のコーヒーや、苦くて真っ黒なコーヒー。コーヒーが嫌いで、まったく飲まない人もいるだろう。様々な人生があり、その誰もが過去と現在をつなぐ偶然の連続に、一杯のコーヒーを選択する。今日出会ったコーヒーが美味しければ、その人は明日も同じ店に来るかもしれない。大げさかもしれないが、その人のひとつの行動や感情の変化は、その人の人生の動線を大きく変える可能性がある。もちろん、良いほうか、悪いほうかは知ったことではないが。
 つまりコーヒー屋は、あなた人生を変えうるものを抽出する。今回の抽出液はいつもより美味しいかもしれないし、不味いかもしれない。スクープによって無作為に選び取られたコーヒー豆に、確実性などはどこにもない。ハンドピックなどでリスクを軽減することはもちろん可能だろうが、0%や100%を語ることは、傲慢な姿勢だと言っていいだろう。だから僕は、美味しいと思って手渡したカップを窓の外からじっと、眺めている。美味しければいいなという、半ば投げやりで、無責任な態度だ。だってその人の人生を知っているわけではないから。僕にとってのいいモノを出すしかない。そこにお客様という変数がある以上、コーヒーはどこまでも美味しさが変動しうる飲み物なのだ。
 当然のことだが、それはコーヒーに限ったことではない。硬直したように見える商品も、そこに内在する価値によっていかにも変容しうる。受け取り手の存在はモノの見え方を無限に拡大し、“良いもの”の規準を曖昧にさせる。重そうなイスも、雑草のような植物も、てづくりのお菓子も、なんだってそうだ。コーヒーという液体は、趣向品という性質もあってその傾向がより顕著だと言えるだろう。これは確実にまちがいなく美味しいのです、と客観的な指標をもって解らせることなど、出来はしないのだった。
 だから僕は、窓からコーヒーを持つ手を眺めている。楽しそうな表情で、美味しいね、と話し合う声を想像して、嬉しい気持ちになる。そのような些細なことのために人は生きようと思えるのだろう。


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